日本軍に適した近接戦闘用対戦車火器【2式擲弾器】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 毎回用いているテーマ・リードにも記しているように、本連載は、日本陸軍の火砲を紹介するものだ。しかし今回は、銃器と火砲の中間に位置するとでもいうべき兵器のため、触れられる機会が多くない擲弾発射器(てきだんはっしゃき)について記すことにしたい。 擲弾発射器とは、迫撃砲よりも簡易な発射装置で、擲弾という専用の爆発物か既存の手榴弾を撃ち出すが、両方が撃てる機種もある。日本軍は、小銃を使って重量のある擲弾や手榴弾を発射すると銃が痛んで精度が落ち、寿命も短くなることを懸念して、重擲弾筒という専用の擲弾発射器を装備した。 だが、連合軍が戦車など装甲戦闘車両を多用するようになり、対抗手段の開発が急務となった。幸い、ドイツから炸薬の爆発力で装甲板を貫徹できる成形炸薬弾(HEAT弾)の技術が提供され、高速と砲弾重量の重さで装甲を貫徹する徹甲弾を砲から発射しなくても、低速の発射や投擲で効果的な対戦車攻撃が可能となった。 そこで日本陸軍は、同時にドイツから提供された小銃の銃口に装着する簡易な擲弾発射器と、タ弾の秘匿名称を与えた成形炸薬弾(せいけいさくやくだん)のなかの、擲弾型の生産を開始する。敵戦車の脅威は増大の一途を辿り、小銃の精度が低下するなどというケチな話どころか、それ以前にその小銃が、持ち主ともども敵に「抹殺」される戦況となっていたのだ。 かくして生産が始まった2式擲弾器はタテ器の略称で呼ばれ、既存の38式または99式小銃の銃口に装着でき、専用の空砲で擲弾を発射した。擲弾は30mmタ弾と40mmタ弾の2種類がテストされ、40mmのほうが主用されることとなった。 必中距離は20m以内で、40mmタ弾なら50mm装甲を確実に貫徹、60mm装甲なら命中弾の50パーセント程度が貫徹した。つまり連合軍の主力戦車であるM4シャーマン中戦車なら、側面や背面の貫徹が可能であり、連合軍戦車兵は乗車が被弾貫徹されると戦闘能力を失っていなくても脱出するのが一般的だったので、完全撃破とはいかないまでも放棄させて戦力外とすることができた。 しかもタテ器も擲弾タ弾も小型軽量だったので兵站上の負担にもなりにくかったが、いかんせん生産の開始が1942年後半で、生産速度も速くはなかったため、前線部隊での評判はよかったものの、装備数が少なすぎたのが惜しかった。 欧米の軍隊では、対戦車小銃擲弾はどちらかといえば攻撃用兵器ではなく、歩兵が戦車に攻撃された際の非常用の自衛兵器という位置付けが強かった。しかし日本軍の場合、他に有効な歩兵携行式対戦車兵器がなかったので、もしタテ器が一定数装備されていたら、これを主用する肉薄対戦車分隊のような「戦車狩り」部隊が臨時で編成されるなどしたかもしれない。爆薬を担いで敵戦車に突っ込む必死の自爆攻撃とは違い、生存も見込めるので反復攻撃が可能なだけましだったからだ。 だが当時の日本の国力では、大量生産も急速な配備も無理な話であった。
白石 光