「そんなに毎回面白いことは浮かばない」55年間『笑点』に出続けた、林家木久扇の86年
スーツ姿でサングラスというダンディーないでたち
前出・彦いちは入門後の数年間、師匠の旅(地方営業)にお供したが、そのころの印象的な姿を明かす。 当時、木久蔵だった師匠は50代、スーツ姿でサングラスというダンディーないでたちで、手には、落語家とはちょっと不釣り合いなアタッシェケースをいつも持っていたという。 「そのアタッシェケースは師匠の机だったんです。電車や車での移動中、膝の上にアタッシェケースを置いて、礼状を書いていました。とにかくマメ。もらう方はうれしいでしょう、直筆ですから」 木久扇は今も毎年、600通の年賀状を書くという。そこにももちろん、直筆のひと言を添える。背景にあるのは、 「落語家っていうのはひとり商売ですから、つながるのが商売なんです」 という木久扇の思いだ。はがき1枚によって、お客さんとつながれる。 「前座のころ、誰が僕の落語が好きで、誰がご贔屓になってくれるのかわからない。ただ前座のころから人とつながって、人に覚えられないと出世しない、ということは感じていました」 その思いから、知り合った方、お世話になった方に、礼状をしたためるようになった。 公衆電話ボックスが街のあちこちにあった時代のこと。一時期、公衆電話ボックスのガラスに、風俗系のチラシが張りつけられていた。そこにも木久扇は目をつけた。 「引っ越したため使えなくなった名刺を、捨てるのももったいないので、新しい電話番号と『司会やります』というメッセージを書いて張りつけていました。仕事はほとんど来なかったですけど、周りからは『マメだね』って言われましたね」 マメである前に、電話ボックスに名刺を張りつけてしまうというひらめき。他の芸人にはなかった発想。談志師匠に気に入られたのも、そんな発想から生まれた気遣いからだった。 「当時、談志さんは二ツ目で柳家小ゑん(以下、談志と表記)と名乗っていました。売れっ子でした。あれは夏でしたね。まだ寄席に冷房がなかった。談志さんが楽屋に飛び込んできて『こんな暑いときに一席やんのか、やんなっちゃうな、(高座を)降りたら風呂に行きてぇな』ってつぶやいたんです。 それを耳にしたんで、談志さんが高座を降りて着替えているときに、『これお使いください』ってタオルと石けんを渡したんです。そうしたら談志さんが目をむいて『これ、おめぇのか』『はい』『おめぇ売れるぞ』って。すごくうれしかったですね。 それ以来、談志さんがばかに気に入ってくれました。僕は着物を着せるのもうまかったので、談志さんがすぐに『木久蔵はどこにいる?』と。高座返し(高座の座布団を裏返しにしてきちんとそろえること)もうまかったので、談志さんの指名で僕がやっていました」 今春の番組卒業まで貫かれた『笑点』における木久扇(当時の木久蔵)の方向性を示したのも、談志師匠だった。 「おめぇ、発想が面白れぇから与太郎でやってみな」 そのとおりを、木久蔵は実践した。俳優が役作りをするような、そんな感じで。