「そんなに毎回面白いことは浮かばない」55年間『笑点』に出続けた、林家木久扇の86年
電話ボックスに名刺を張って営業を
最初の師匠、名人三木助が入門後半年で亡くなると、八代目林家正蔵師匠(隠居名=林家彦六)の元へと移った。寄席で前座修業も始まり、芸名は「林家木久蔵」に決まる。後々、全国に名前をとどろかせることになる「林家木久蔵」としての人生は、26歳のときに始まった。 「正蔵師匠は、誠実な師匠でした。狭い長屋暮らしだったので、家の中の掃除はあっという間にできますし、小言はなかったです。ただ、寒い冬に外で、窓ガラスを拭くのはつらかったですけどね」 そんなことはおくびにも出さず、木久蔵は窓ガラスを拭いていた。そんなある日のことだった。 「ガラッと玄関から師匠が出てきた。師匠の家の茶の間には昔ながらの火鉢があって、そこにかかっていた鉄瓶を持って出てきて、バケツにお湯を入れてくれたんです。そのころ、師匠は手も震えていたんですが、その手で重たい鉄瓶を持ってくれて……」 木久扇の創作落語に『彦六伝』という噺がある。彦六師匠へのオマージュで、1982(昭和57)年に亡くなった彦六師匠を知らない現代の客前でやっても、いつも爆笑を呼ぶ噺。その秀逸さ、普遍性について語るのは、ユニオン映画株式会社の飯田達哉さん(72)。『笑点』のプロデューサーとして、40年以上の長きにわたり、木久扇を見つめてきた人物だ。 「彦六さんを知らない人が多くなっているのに、あの人が語ると、そういう人なんだなって思えるし、落語から彦六が飛び出してくる。人物伝としては秀逸ですよ」 と手放しで絶賛する。 テレビでバスケットボールを見ていた師匠が、震える声で「誰かおせえてやらねえか。網の底が抜けているのが知らねぇのか」と、バスケットボールを玉入れと勘違いするやりとり。「どうして餅にカビが生えるんだ」という疑問に「早く食わねぇからだ」と返す、ある種シュールなツッコミ。立川談志師匠の国政出馬を面白おかしくまとめた落語『明るい選挙』と双璧の噺で、木久扇のスキャニング力、観察力がいかんなく盛り込まれている。 木久扇が彦六師匠から学んだことに、お礼の仕方がある。 「正蔵師匠はよくお礼状を書いていました。お中元の挨拶も、今みたいな配送ではなく、自分で持って行っていました。都電を乗り継いで、『瞼の母』などを書いた作家の長谷川伸さんや『佐々木小次郎』などを書いた村上元三さんのところへ盆暮れには必ず届けていましたね」 木久扇は今、朝食が済むと毎日「10通ぐらい」のはがきを書くのが日課だ。自身のイラストを印刷したオリジナルはがきに、手書きで住所を書き、手書きでひと言添える。 「高座が面白かったと感想をくださる方や仕事でお世話になった方、楽屋に差し入れを持って来てくださった方、献本をいただいた著者に書きますね。絵も入っているので、字がいっぱい要らないんです。手書きだと、受け取った人が取っておいてくれる。普通は捨てちゃうでしょう。もう毎日書いているから得意なんです」 とお礼状の真意を伝える。