作家ハン・ガンは見た…戒厳軍のためらいを【特派員コラム】
チャン・イェジ|ベルリン特派員
数字を覚えることはあまり得意ではないが、今年スウェーデンのストックホルムで開かれたノーベル賞祝賀ウィークは忘れられないと思う。「12・3内乱事態」直後の6日(現地時間)に幕を上げたノーベルウィークは、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領弾劾訴追案が可決される2日前の12日に終わった。ハン・ガンさんがこの期間、初めて大衆の前に立つ公式記者会見を控え、世間の関心は自ずとハンさんが非常戒厳について切り出す一言に集まっていた。 この記者会見で、ハン・ガンさんが戒厳宣布当日に国会に出動した若い警察と軍人について述べた言葉を再びこの紙面に移してみる。 「(彼らは)予期せぬ状況で判断しようとし、内的衝突を感じながら、できるだけ消極的に動いている印象を受けた。そのような(出動)命令を下した人々の立場からすると、消極的に(見える)ものだったかもしれないが、普遍的な価値の観点からすると、判断し、苦しみを覚えながらも解決策を模索しようとした積極的な行為だったと思う」 ハン・ガンさんは、ためらう戒厳軍から1980年5月の光州(クァンジュ)を見たようだ。 小説「少年が来る」のエピローグにはこのような内容が出てくる。 「特に残酷な兵士たちがいたように、特に消極的な兵士たちがいた。(中略)集団発砲命令が下された時、人を撃たないように銃身を上げて発射した兵士たちがいた。道庁前の遺体の前で隊列を整備して軍歌を合唱する時、最後まで口をつぐんでいて海外メディアのカメラに撮られた兵士がいた。 どこか似たような態度が、道庁に残った市民軍たちにもあった。ほとんどの人が銃を手にしただけで、撃つことはできなかった。敗北することを分かっていながら、なぜ(都庁に)残ったのかという質問に、生き残った証言者たちは皆似たような答えを口にした。『わかりません。ただそうしなければならない気がしました』」 ノーベル賞取材期間中、この話がずっと頭の中をぐるぐる回っていた。ストックホルムでは、ハン・ガンさんのスピーチ現場や授賞式、朗読会が行われた劇場の近くで、現地に住む韓国人たちが三々五々集まり、尹大統領を糾弾する弾劾集会を開いた。ある声楽家は氷点下の寒さにもかかわらず、自分にできる音楽を通じて歌を歌いながら1人デモを行った。あるドイツ人の友人は、ベルリンのブランデンブルク広場の前を埋め尽くした数百人の集会写真を送ってきた。電子メールの受信箱には、ドイツやフランス、オランダの各地で弾劾案の議決を求める集会のニュースを伝えるメールがたまっている。「考え、判断し、苦しみを覚えながら解決策を模索しようとした」、だからこそ声をあげようとした積極的な市民たちの姿が、数日前の国会と44年前の光州道庁前の姿と重なった。 ハン・ガンさんは11日、受賞の感想を述べる晩餐で「暴力の反対側である、この場に一緒に立っている皆さんと共に、文学のためのこの賞の意味を分かち合いたい」と語った。街で見た「暴力の反対側」に立っている名前も知らない人々の顔が思い浮かんだ。 一方、国会質疑と捜査過程では、尹大統領を筆頭に積極的に戒厳令発動を主導し、加担したと疑われる人々が誰なのかが明らかになっている。イ・サンミン前行政安全部長官をはじめ、戒厳を「高度な統治行為」だとしてその正当性を擁護し、弾劾を政権再建を防ぐ妨害物と考える与党の認識も明らかになった。戒厳令宣布当日、国務会議に出席した国務委員の大半はその後消極的に沈黙を守り、大統領に向かって明示的に戒厳反対の意思を示したと国会で答えた国務委員はたったの2人だった。彼らの積極性と消極性は、単に権力の属性に起因するものだろうか。なかなか答えが出てこない質問だが、彼らがどちら側にいたかはすぐに分かるだろう。 チャン・イェジ|ベルリン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )