2006年夏にあった斎藤佑樹“もうひとつの激闘”!早稲田実vs.日大三、西東京大会決勝【東西東京大会50周年物語⑤】
世田谷区の編入で、一気に戦国化した東東京
2000年は準決勝で早稲田実が日大豊山に延長10回7-8の接戦の末敗れた。これで、東東京での早稲田実の歴史は終わった。早稲田実を破った日大豊山は決勝戦でも国士舘を5-4の接戦を制し、甲子園初出場を決めた。当時都内の日大の付属の中では、女子校を除き唯一甲子園経験がなかったので、まさに悲願の優勝であった。 01年は準決勝で関東一をコールドで破った城東が、決勝戦では岩倉を5-4の接戦で破り、都立校では初めての2回目の優勝を決めた。有馬監督は都立保谷に異動したため、梨本浩司(現都立文京監督)が監督を務めた。東東京大会で本塁打3本の活躍をした内田稔は、現在城東の監督を務めている。 02年は決勝戦で二松学舎大附を破った帝京が、順当に甲子園に駒を進めた。帝京は甲子園でも準決勝まで進んでいる。なおこの時のメンバーには、現在同校の監督である金田優哉が入っている。 03年の東東京大会は、準決勝で安田学園との延長13回の死闘を制した都立雪谷が決勝戦に進出した。決勝の相手は好投手の小杉陽太(現横浜DeNAコーチ)を擁する二松学舎大附だった。この試合、雪谷の太田章夫と二松学舎大附の小杉の投手戦になったが、雪谷が9回表に一挙5点を挙げて勝って、甲子園大会に出場した。甲子園では初戦にPL学園と対戦し、1-13で敗れた。 04年の東東京大会は、小田川雅彦監督率いる修徳が、決勝戦で二松学舎大附を3-2で破り、11年ぶりの優勝を決めた。甲子園でも修徳は初戦(2回戦)で背番号11の2年生・斉藤勝が被安打7の完封で鹿児島実を1-0で破り勢いに乗り、準々決勝に進出した。 05年はセンバツには当時の段階で7回出場、4強2回と実績を残しながら、夏の優勝はなかった国士舘が、圧倒的な強さをみせ、初めての夏の甲子園出場を決めた。 このように、96年に世田谷区が加わったことで、東東京大会は混戦に拍車がかかった。10年間で都立勢が3回優勝。初優勝が5回とまさに戦国大会の様相を呈していた。その一方で市原勝人監督率いる二松学舎大附は、2年連続で決勝戦で敗れるなど、あと一歩の壁を越えられないでいた。