そそっかしかった『まんぷく』福子のモデル・仁子。娘の願書を別の高校へ送ってしまい…子どもたちが成長するなかで気付いた母の愛とは
2018年から2019年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「仁子の愛 ~鬼から慈母へ」です。 【写真】いつも気丈だった母・須磨と * * * * * * * ◆母が一緒に来てくれてよかった 宏基(次男)に「鬼の仁子」と怖がられましたが、本人は後年、「子どもたちのことをもっとかまってあげたかった」と話していました。結婚してからずっと、百福のいつも前しか見ない人生に振り回され、多事多難だったのです。仁子の生活は百福の身の回りの世話で精いっぱいでした。その分、子どもたちに母親らしい接し方ができなかったことを悔いていました。 戦後、家事、育児を一手に引き受けたのは、実は須磨(仁子の母)でした。 仁子は、「結婚後、母が一緒に来てくれてよかった。私を助けてくれた」と、須磨に対する感謝の思いを書き記しています。 須磨は1968(昭和43)年11月に亡くなりました。八十九歳でした。 家族全員でチキンラーメン開発を手伝った池田市呉服町の借家を出て、同じ池田市満寿美町の自宅に引っ越した翌年でした。百福はちょうど、カップヌードルの開発に忙しい時期で、研究所で作ったスープの味が気に入らず、満寿美町の自宅の台所で自ら調理して研究していました。 また、肉と野菜をミンチ状に加工した「ダイスミンチ」(現在は通称「謎肉」と呼ばれています)も、当時、百福が自宅で工夫して作りあげたのです。須磨は、若い頃と変わらぬ百福の姿を見ながら、日清食品の成功と、仁子や孫たちの幸せを確信して、安らかな眠りについたのです。
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