「斎藤知事は反社会的勢力にはめられた」説が陰謀論扱いされる理由
山口組の原点
山口組の創始者は、その名も山口春吉(はるきち)と言います(1881年生まれ)。 山口は兵庫県沖の瀬戸内海に浮かぶ淡路島で漁師として生計を立てていましたが、貧しい漁師暮らしに見切りをつけ、職を求めて神戸へ移ります。 春吉が神戸に渡った時は25歳。日露戦争の直後で神戸港は日本有数の貿易港として活況を呈し、周辺の農漁村からは春吉のように一攫千金を夢見る人々が神戸に多数、流入していました。 当時ほぼすべてが人力による、港での荷揚げという厳しい労働環境に置かれた日雇いの労務者には、彼らを統率する強力なリーダーが必要でした。なにしろ狭くて蒸し暑い船倉から石炭や重機を人力で運び出すのですから、腕力自慢の荒くれ者でないと務まりません。春吉は労働者を束ねる頭領として信用を集め、頭角を現していきます。そして、荷揚げ人足を束ねる「組」として「山口組」を旗揚げします。この「組」は、土木業に端を発する大林組とかの「組」と同じ意味合いでした。 山口組の始まりは正業の事業であり、最下層の労働者のなかから立ち上がった集団だったことは特筆に値します。山口組が「近代ヤクザの典型」といわれるのもそのためです。 以来、山口組はミナト神戸での荷役と市場での運搬、春吉が愛好し庶民の数少ない娯楽として近隣から歓迎された浪曲や相撲の興行という二枚看板の事業を全国にまで拡大、成長させていきます。これが、敗戦後に山口組が急成長する経済基盤となったのです。
3代目と港湾
中興の祖とされる3代目組長の田岡一雄といえば、一般には東映任侠映画「山口組三代目」(1973年)で高倉健が田岡役を演じて大ヒットしたことでご記憶の方もいるでしょう。 田岡が組織原理として打ち出したのは「事業と軍団の分離」でした。これが敵対する警察当局からも「先見的」な戦略と称されたのは、配下の「企業舎弟」に港湾労務者を管理させる一方で、これら実業部門で稼いだ資金を抗争部門に惜しみなく「投資」。それが、山口組が進出する先々の地元勢力の度肝を抜く、組員の「大量動員」方式を確立することに寄与したからです。 山口組は「全国制覇」へとひた走り、60年代には日本最大の暴力団組織へと駆け上がるに至ります。主に昭和年間に業界の内外に築かれた好戦的な「山菱」ブランドが、固有の経営資源となっているのです。