<攻める・22センバツ倉敷工>新しい時代への挑戦/上 伝統に自分色プラス 甲子園で初の采配、高田監督 /岡山
第94回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催)に、13年ぶり11回目の出場を果たす倉敷工。「攻める野球」を追求し、挑戦を続ける高田康隆監督(47)と選手たちの軌跡をたどる。【岩本一希】 「まずは甲子園で校歌を歌う。次に一戦一戦、勝つことです」。監督として初めての甲子園出場となる高田監督は、開幕が間近に迫ったセンバツへの抱負を語る。 自身も倉敷工野球部で3年間、汗を流した。甲子園出場はかなわなかったが、直球140キロ超えの右腕として、1年から試合に出場した。大阪経済大に進学し、活躍していた3年の時、右肘を疲労骨折した。野球をあきらめざるを得なくなり、退学も頭をよぎったが、母校を訪れた際、和泉利典監督(当時)に「選手だけが野球じゃない」という言葉をかけられ、指導者への道が開けた。 大学4年だった1996年、倉敷工の学生コーチに就任。この年、チームは夏の甲子園に出場した。夜の自主練習でひたむきにバットを振り続ける選手の姿に心を動かされた。「夢を追いかけることって大事だな」。教員を志し、大学卒業後は企業に勤めながら、通信教育を受けて教員免許を取得。県内の私立高で監督を務めて2016年、母校に監督として戻った。 伝統校の監督には周囲の期待がプレッシャーとしてのしかかる。そんな中で貫いた信念が「新しい時代への挑戦」だった。「僕の後に指導者として来る若い世代が、自分の色を出せるために何か形作れないかと思った」と説明する。 私立の監督を経験し、公立との差を多く感じていた。だが、それを言い訳にせず、差を縮めるためのアイデアを考え続けた。遠征し、全国の強豪校と練習試合をする「日本一プロジェクト」や、選手が親元を離れて高田監督と寝食を共にする「下宿」など、高田監督就任後に始まった取り組みは多い。当初は周囲の理解を得られなくても、徐々にその意図を理解し、入学を希望する生徒が増えた。 監督就任からまもなく6年。年々、手応えを感じる中で13年ぶりのセンバツ出場を決めた。あくまで「通過点」とした上で、「まだ鍛えないといけん所がある」と気を引き締める。チームの目標「郷土岡山から日本一」を達成すべく、新たな挑戦が始まる。