「日本酒のルーツ」は三国志の英雄・曹操にあった!? 中国で「酒の神様」と呼ばれる理由とは
「酒に対してはまさに歌うべし、人生いくばくぞ・・・」との一節で知られる詩「短歌行」を残した、三国志の英雄・曹操。中国では意外にも彼を「酒の神様」として祀る地方がある。なぜ、そうなっているのか、現地の写真も交えてお伝えしよう。 ■曹操が後世に残した「酒のレシピ」とは? 一般に、三国志で「酒」といえば、張飛(ちょうひ)が有名である。たいてい酒を飲んで大暴れするのが定番だが、それは小説での話。史実においては、孫権(そんけん)のほうが、圧倒的に酒乱なのだが、その話は別の機会にゆずろう。 曹操も相当な酒好きだった。もちろん、史実を踏まえての話である。冒頭の賦(ふ)や、次の上奏文を残していることからも、それがよく分かるだろう。 「12月2日に、100リットルぐらいの水で麹(こうじ)を7kgほど洗い、正月に凍っているところを溶かします。良質な米を加えて造り、三日にいちど発酵させ、180リットルぐらいになったら米を追加するのをやめます」 「あとは、麹のカスを搾りとれば飲めます。麹や米に虫がたくさんついていたとしても、こうすれば完全にいなくなるので平気です。きれいなので酒カスも飲めます」 「9回発酵させると良いですが、もし苦い場合は10回発酵させれば、ずいぶん甘くなって飲みやすく、しかも酔いにくいので、おすすめです」(『全三国文』九醞春酒法/きゅううん しゅんしゅほう) これは、曹操が漢の献帝(けんてい)に献上したレシピである。知人に郭芝(かくし)という酒造りの職人がいて、彼からおそわった製法を曹操が書いて残したのだ。これを見る限り、かなり大量の穀物と手間とをかけて造る上等の酒だったと思える。 曹操の生まれ故郷である毫州市(安徽省)は、この故事のとおり「古井貢酒」(こい こうしゅ)という白酒(バイチョウ)の産地として知られる。古井とは「古井戸」のことで、その水で造った酒を帝に献じた(貢いだ)という意味がある。 この地では、故郷の英雄・曹操が「酒神」としても祀られている。「白酒博物館」では、その地下に明代・清代の酒造場が保存され、その上に曹操の酒造りにまつわる資料や出土品が並んでいる。 ただし、曹操が飲んだのは、上に書いたような白酒ではなかった。白酒とは焼酎や泡盛と同じ蒸留酒であり、非常にアルコール度数の高い酒。これが造られるようになったのは、蒸留技術が発達した元の時代(13世紀)といわれる。一説には唐の時代(7世紀)からあったともいうが、漢の時代には、まだ無かっただろうと思われる。 ■曹操、愛飲の酒が各地へ伝播し、日本酒に? おそらく、曹操が伝えた酒は黄酒(醸造酒)であっただろう。黄酒といえば日本酒や紹興酒がそれにあてはまる。米を使った甘みのある酒ではなかったかと思われる。中国には貴州省の東部などで、米の醸造酒、米酒(ミーチョウ)が造られている。 ミャオ族など少数民族が住む鎮遠県という都市では、主に家庭用の酒として愛用されている。ここには千年ほど前に湖南省から漢民族が流入したといわれ、漢から伝わった酒の製法を伝えた者もいたかもしれない。米酒の原型が、すなわち曹操の「九醞春酒」だった可能性もあるだろう。 米酒は製法も味も日本酒にも似ている。曹操のレシピは、もしかすると人づてに東の海を越え、日本にもたらされたのかもしれない。単に酒好きというだけでなく、その製法を後世に伝えたという文化的な功績において、曹操が酒神と崇められるのは当然といっても良いだろう。
上永哲矢