米国で和菓子を作り続けて120年、LAの「風月堂」が生き残ってこれた理由─日本人強制収容やLA暴動… 歴史の荒波を乗り越えてチャンスを掴んだ
強制収容所時代と戦後の苦境
20世紀初頭、ロサンゼルスは好景気に沸いており、季節労働者として来ていた多くの日本人移民がこの地に留まった。セイイチ・キトーは1903年に現在の場所から数ブロック離れた場所に店を設け、東京で修行をした店の名前にちなんでそれを「風月堂」と名付けた。 1906年のサンフランシスコ地震により、さらに多くの日系人が南に移住し、リトル東京の人口は3000人から1万人近くにまで増加した。住民の多くは日本との強いつながりを維持していた。米国で生まれた彼らの子供たちは、教育を受けたり、故郷の家族と暮らしたりするために日本に送られるのが一般的だった。 1921年にセイイチの妻テイが亡くなったとき、彼は8人の子供のうち、末っ子のロイを含む4人を日本の親戚や友人に育ててもらうことにした。ロイは第一言語が日本語のまま、16歳で米国に戻った。 1941年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が強制収容を認める大統領令9066号を発令すると、その後の4年間で、日系人12万人が強制収容されることとなった。リトル東京は壊滅的な打撃を受け、多くの住民が家やビジネスの売却を余儀なくされた。 キトー一家はワイオミング州ハートマウンテンにある強制収容所、ハートマウンテン移住センターに収容され、ロイはそこで将来の妻となるカズコと出会った。セイイチは配給の砂糖を使って、収容所の人々のために饅頭を作った。 第二次世界大戦が終わると、日系人の多くは住む場所もないまま西海岸に帰るか、トレーラーパークで暮らさなければならなかった。 一家はリトル東京に戻った。風月堂があった建物の所有者は、機器の保管料として4年分の家賃を請求した。ロイとカズコ夫妻は地元の寺院で寝泊まりしながら、なんとか借金を返済した。ロイはリトル東京に住むタナハシ家の援助を受けて、1946年5月に風月堂を再開した。
Meghan McCarron