“軍国少年”だった児童文学作家の記憶、そして今思うこと【つたえる 終戦79年】
児童文学作品を執筆する傍ら、戦時史の発掘を続ける山中恒さん(93)。自宅の書庫には貴重な史料がずらりと並び、「アジア・太平洋戦争史」など、歴史学者顔負けの著書も多い。 【写真】「大人も子どもも性別も関係なく山積みに…」 女性の母親は、頭や腕に無数のガラス片が突き刺さり、血を流しながら娘の無事を知って安堵の表情を浮かべていた。「母の目元がそっくり。においまで伝わってくるよう」。女性は涙ぐみ、感謝を… 美術学生がヒロシマとナガサキに向き合って抱いた平和への願い
日本が軍国主義に染まった戦前から戦中にかけて少年時代を過ごし、自身も“軍国少年”だった。戦争中の出来事は、今思えば「ばかばかしい」と思うことだらけだ。 山中さんに当時の記憶をたどってもらい、今の日本について思うことを聞いた。(聞き手 共同通信=今村未生) ▽「少国民」は木刀を持ち、突撃訓練を繰り返した 天皇陛下に仕える小さな国民という意味の「少国民」という言葉が使われるようになったのは、太平洋戦争が開戦した1941年頃です。大東亜共栄圏を建設する国民の幼少期を指します。それまでは、カタカナで「ヨイコ」と言っていたんですよ。僕が10歳の時に、尋常小学校が6年制の国民学校初等科に改組されました。 「少国民であるからには、大東亜建設戦争の前衛に立つんだ」。こうした思想を理屈抜きに、徹底的に教えられました。正しい戦争だと思っていました。 「勝ち抜く僕等少国民 天皇陛下の御為に 死ねと教えた父母の…」 ひどい歌詞ですよね。こうした悲壮感漂う進軍歌を歌い一体感が生み出されました。
学校では、柔道の形を学んでいた時間に木刀を持ち、「突撃だ」と繰り返し行いました。防空壕(ごう)を掘り、退避訓練もするようになりました。 ▽陥落記念でキャラメル配給「戦争に勝つのはいいものだ」 シンガポール陥落の際には、キャラメルやお汁粉の特別配給があり、戦争に勝つのはいいものだなと思いましたね。今思うと、お汁粉でだまされたなんてばかばかしいですよ。 中学2年の時に、終戦を迎えました。雑音だらけの玉音放送で唯一聞き取れたのが「せしめたり」という文言。勇ましく聞こえ、米軍を撃破したと思ったのですが、正確には「共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」でした。ポツダム宣言の受諾について述べたのだと、あとになって分かりました。 ▽昔に戻ろうとしている日本…まずは歴史学ぶ必要 負けたら国民全員が切腹して天皇陛下におわびしないといけないと教えられていたから、どうやって死ぬかを考えました。友人が「慌てて死ぬことはないぞ。先生たちが死んでからでも良い」と止めてくれました。ところが、昨日まで「天皇陛下万歳」と叫んでいた先生は、「民主主義万歳」にがらっと変わったんです。