「ビャンビャン麺」だけに使われる激ムズ漢字 なぜ誕生? 新聞紙面で使うことになったら
かつては彫刻刀で手彫り 美しい文字の「名人」も
朝日新聞の紙面で使われているのは、「朝日書体」と呼ばれる独特な文字です。読みやすくて美しいという定評をもたらした一人が、1940~50年代、活版部に在籍した「名人」、太佐源三でした。 戦前は一辺2ミリ台の角材に、はんこのような逆文字を、彫刻刀で手彫りして種字を作っていました。 戦中、戦後間もない頃は良質な彫刻刀がなかなか手に入らない。そのため骨董(こっとう)品店で買った細長い手裏剣で代用した時もあったそうです。 彫刻の機械が導入された戦後は、朝日新聞の活字デザインの礎を築きました。太佐とその弟子たちは、2インチ(約5センチ)角のマス目の方眼紙に毛筆で「原字」を描き、作った数は明朝5種類とゴシック4種類で延べ約5万字。確立したデザインは、今の紙面にもしっかり受け継がれています。 活版印刷の時代に緊急な作字依頼があったら、どうやっていたのでしょうか。 1982年に入社し、大阪本社活版部に4年間、所属した鈴木宏治さんによると、すでにある漢字を部首やつくりなどへ分解し、組み合わせるのが基本でした。それでも作成できない漢字は新たに彫っていたようです。 「ビャン」の漢字を手彫りできるかと聞いたところ、「無理です。『考え直して』となりますね」。 活字は部首別、画数順などで保管棚に配置されていました。鈴木さんは夜勤明けでねぼけていた朝、活字棚にぶつかってしまいました。倒れた棚から数万個の活字が床一面に散らばり、『何をやっているんだ』と先輩たちに怒られたそうです。 「床に一度落ちた活字は部分的につぶれたり、ゆがんだりしてしまうので、使えなくなります。ほうきなどで片付け、社内にあった鉛溶解炉に投げ込むことになりました」 朝日新聞社で最後まで残った大阪活版部には約300人の部員がいました。1980年代にはコンピューター化が進み、88年に役目を終えました。