【甲子園100年物語(1)】100年前からスターの登竜門 和製ベーブ・ルースが誕生
8月1日に甲子園球場は開場100年を迎える。現存する日本最古の球場であり、日本の野球界を支えてきた聖地。阪神は9日から広島との本拠地開幕シリーズに臨み、8月1日は巨人との伝統の一戦が予定されている。「甲子園100年物語」と題した連載で、その歴史を振り返り、甲子園名物の秘話なども取り上げる。第2回以降はスポーツ報知ホームページで随時掲載。(編集委員・井之川 昇平) 1924年8月1日に甲子園球場が誕生した。その日は竣工式が行われ、続いて、阪神間学童体育大会。小学生2500人が集まって、広大なグラウンドに足を踏み入れた。当時の名称「甲子園大運動場」に示されるように、球場建設の目的の一つはスポーツ振興。そんな背景もあって、小学生による運動会がこけら落としとなった。 そして、12日後の8月13日、第10回全国中等学校優勝野球大会が開幕した。甲子園最初の試合は、静岡中に4点をリードされた北海中(北海道)が、8回に追いつき、延長12回サヨナラ勝ち。無数のドラマを生むことになる甲子園は、その始まりから劇的だった。 この大会のヒーローは、第一神港商(現・神港橘=兵庫)の山下実。8月16日の初戦(2回戦)で、この年の春の第1回センバツ準優勝だった早稲田実(東京)を相手に豪打を見せつけた。左打ちのスラッガーの右越えの打球は、ワンバウンドでフェンスに当たるランニング本塁打となった。スタンドインじゃないのか、と興ざめするなかれ。当時は両翼110メートル。柵越えなんてとんでもない。ワンバウンドでフェンスに当たるだけでもすごい打球なのだ。ベーブ・ルースにちなんで「ベーブ山下」と呼ばれるようになった怪童は、慶大で神宮を沸かせ、阪急でも日本プロ野球初のオーバーフェンスの本塁打を放つなどの活躍。甲子園はその最初の大会からスターを誕生させた。 優勝したのは、山下の第一神港商を準々決勝で破った広島商。指揮したのは、後にプロ野球・阪神、広島などで監督を務める名将・石本秀一。決勝で松本商(現・松商学園=長野)を3―0で下した。19校が参加し、7日間開催された初の甲子園大会は大盛況だった。 「甲子園」の球場名は、この年の暦が、十干(じっかん)は甲(きのえ)、十二支は子(ね)だったことから命名された。十干は十進法で「甲・乙・丙…」。十二支は十二進法で「子・丑(うし)・寅(とら)…」。甲と子はそれぞれの1番目なので縁起がいい年とされた。 ちなみに、同様に「甲子」を施設名にした前例がある。福島県の「甲子温泉」。開発されたのは1636年だが、温泉発見が「甲子」の年の1384年だったことから名付けられたという。ただし、読み方は「こうし」ではなく「かし」。 甲子園の「園」は、この西宮周辺でブームだった。高級邸宅街など新たに開発された土地が「甲東園」「苦楽園」などと命名され、その地名は今も残る。その一つである「香櫨園」に“甲子園球場の先祖”があった。(続く)
報知新聞社