全身40%の火傷で植物状態に…男性が生還できた理由「母が手を握ってくれなかったら諦めて死んでいた」
22年前、不慮のガス爆発事故に巻き込まれ、全身の40%に火傷を負った濱安高信さん。当時、濱安さんの深刻な状態から奇跡的な生還、退院にいたるまでの様子がテレビ取材され、メディアでも話題に。驚くべきことに、植物状態の時に家族や医師がどんな会話をしていたか、「今夜亡くなります」と宣告を受けた時のことまで“覚えている”という。事故当事者として、患者として、周囲の想いをどのように受け止めていたのか。当時のことを赤裸々に語ってもらった。 【写真】まさに奇跡! 事故後は全身焼けただれ、足も“骨と皮”だけに…20年以上に及ぶリハビリで歩行できるまでに
■ライターの火が引火して爆発、火だるまになりながら119番「その場にいたら死んでしまう」
平成14年5月24日、当時の実家があった大宮市(現在のさいたま市)で、後輩がタバコに火をつけようとした際、ガスに引火してしまい爆発。それに巻き込まれて火傷を負ってしまいました。火だるまになって転げまわり、火の粉を振り落としたのですが、部屋がもの凄い高温になっていたため、その場にいたら死んでしまうと思い、部屋から出て救急車を呼びました。 火傷は顔と両腕と膝から下の両足にわたっていました。その時点では、すぐに死の危険が迫る状態ではありませんでした。翌日には目覚めて、「ただの火傷だ。治ればまた元の日常が取り戻せる」と考えたほどです。ですが、免疫力が下がってしまい、黄色ブドウ球菌という非常に強い細菌に感染してしまいました。普段は空気中のいたるところにある菌なのですが、感染したことにより急激に体に変化が起こり、多臓器不全とともに、敗血症になってしまいました。 搬送先の医療センターでは、所属されている先生たち全員が私を救うことを諦めてしまい、別の病院へ搬送されました。 私自身は、痛みを通り越して錯乱状態になってしまっていたので、火傷の部分を掻きむしらないよう拘束具というもので身体を動かないよう抑えてもらいました。火傷は今も見た目で跡は残ってしまっていますが、命の危険に陥ってしまったのは細菌感染の方でした。
■“最期”だと悟った際に選んだ言葉は“母の日に贈ったカーネーション”だった
別の病院に搬送後も、意識は混濁しており、自分自身では指1本動かすことも、瞼を開けることもかなわない状態でした。人工透析や人工呼吸器、身体のいたるところに管が入れられて、医療機器によって生かされていました。先生から「これから全ての身体の自由が効かなくなる筋弛緩剤を投与するけど、最後に何か言っておきたいことはありますか?」と訊かれました。もう2度と話せなくなり、これが最期の言葉になるのだと悟った私は、母の日に22年生きてきて一度だけカーネーションをあげられたことを最期の言葉に選びました。 「カーネーション嬉しかった?」と母に聞くと、「嬉しかったに決まっているじゃない」と泣きながら答えてくれました。母からの、その言葉が聞けたなら最期になっても良い。そう思った私は、先生に投薬を承諾しました。 それから麻酔のように身体の自由が一切効かなくなり、眠りについたような感覚で植物状態になりました。すると、2~3日後には身体は動かないものの、会話が聞こえるように。両親が面会に来てくれて、話しかけてくれている言葉や医師たちが懸命に命を救ってくれようとしている姿など、本当に全ての会話や行動を理解していました。意識がない期間は2~3ヵ月あったと後になって聞きました。毎日私に懸命に話しかけてくれた母の声、先生の声まで、今もはっきりと覚えているのです。