北の富士さん「まぼろしのプロレス転向計画」新日本旗揚げ時に猪木さんが直々に〝スカウト〟
82歳で死去した大相撲の元横綱でNHK中継の解説を務めた北の富士勝昭さんには、まぼろしの「プロレスラー転向計画」があった。故アントニオ猪木さん(享年79)が、新日本プロレス旗揚げから間もない1970年代前半に〝スカウト〟した事実が判明。猪木さんの側近だった元新日本取締役営業本部長で〝過激な仕掛け人〟と呼ばれた新間寿氏(89)が、当時の舞台裏を証言する。 北の富士さんのプロレス転向計画が持ち上がったのが、1972年3月に猪木さんが新日本プロレスを旗揚げした直後だ。57年初場所で初土俵を踏んだ北の富士さんは、70年初場所後に第52代横綱に昇進。74年名古屋場所を最後に現役を引退しており、横綱在位時の出来事となる。 新間氏は「猪木さんが飛行機だか列車で北の富士さんと一緒になってね。『相撲を辞めた後はウチに来て、プロレスをやるのはどうですか?』って声をかけたんだよ。それを聞いて、社長(猪木さん)はやるなあと思いましたよ」と振り返る。 新日本の旗揚げメンバーは猪木さんの他、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳(辰爾)、レフェリーのユセフ・トルコ、魁勝司(北沢幹之)、柴田勝久、豊登だけ。翌年に坂口征二が入団するが、戦力不足は否めなかった。そこで猪木さんが白羽の矢を立てたのが北の富士さんだったという。 「一人でもいいレスラーをつくりたいというのが猪木さんの夢だったんですよ。柔道とか相撲はいいなと。特に相撲は(プロレスと同じ)裸の競技だからと」 現役時代の北の富士さんは185センチ、135キロ。ヘビー級で十分世界の強豪と戦える体格だ。さっそく猪木さんの命を受けた新間氏が交渉に乗り出した。「プロレスは何歳までできるんだ?」と北の富士さんに問われ、「大相撲と違って40歳でも50歳でもやっている人はいますよ」と説明。当時31歳前後だった北の富士さんが活躍できる舞台であることを訴えた。 だが「プロレスに来ることには逡巡があったみたいでね」(新間氏)。日プロでデビューした東富士以来2人目となる横綱経験者のプロレスラー誕生は実現しなかった。 もしあのときプロレスに転向していたら、マット界の歴史が変わっていたと新間氏は言う。「来たらすごかっただろうね。アメリカに行ってさあ、WWWF(現WWE)のビンス(マクマホン・シニア代表)に頼んで、(ニューヨークの)マジソンスクエア・ガーデンでスターにすることだってできた。猪木さんと僕の力で、プロレス界の世界チャンピオンになれた存在でした」と語り静かに故人の冥福を祈った。
小坂健一郎