『不適切にもほどがある!』と『おっパン』に複数の共通点 いまのドラマは“対話”が必要?
放送中の『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』(東海テレビ・フジテレビ系)と『不適切にもほどがある!』(TBS系)には、いくつもの共通点がある。その最たるものはもちろん、主人公が“おっさん/おやじ”だということだ(タイトルに「!」がついていることも共通点だ)。 【写真】『離婚しない男―サレ夫と悪嫁の騙し愛―』熱いキスをする小池徹平と篠田麻里子 観ていてどこか既視感を覚える両作。どちらも中年男性の姿をとおして、いまの社会を見つめるものとなっている。前者の主演は原田泰造で、後者の主演は阿部サダヲ。ともに1970年生まれの俳優である。 『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』(以下、『おっパン』)は、原田が演じる主人公・沖田誠が、令和の日本において自身の価値観をアップデートさせていくというもの。これまで世間で広く共有されてきた常識や凝り固まった考えに縛られている彼は、急速な時代の変化にまるで適応できないでいた。この令和の日本で生きていくうえで最重要視されているもののひとつがコンプライアンス。このままではマズいと思った誠は、ある出会いを機に意識的に自らを変えていく。 いっぽう『不適切にもほどがある!』(以下、『ふてほど』)は、コンプライアンスにがんじがらめになってしまったいまの社会を痛快に描いたものだ。阿部が演じる主人公・小川市郎は、1986年の日本から2024年の日本にタイムスリップ。コンプライアンスなどという概念を持ち合わせていない彼のあまりにも“不適切”な発言の数々が、令和の日本社会を斬りまくる。 「多様性」が尊重される令和の時代において主人公が変化していくのが『おっパン』であり、さまざまなルールが曖昧で誰もが「自由」に過ごせていた昭和の主人公が令和の人々に変化を与えていくのが『ふてほど』ーーざっくりいえばこんな感じで、コンプライアンス問題を扱った両作は似た特性を持っている。「時代と社会(と、そこに生きる人々)」を描いた作品としては、ちょうど対になるものだともいえるだろう。どちらも物語が進むにつれてヒューマンドラマ色が強くなってきている気もするが、作品の核となる部分は変わらない。 古くからある飲み屋をのぞくと、いまだに“悪しき昭和の権化”のような存在に遭遇したりするものだ。しびれをきらせて「コンプライアンスって知ってますか?」とこちらが指摘すると、「ここは飲み屋なんだからよ」と一蹴される。私はコンプライアンスにがんじがらめになった現代人のひとりなのかもしれない。しかし、その彼のハラスメント発言が市郎の口にするもののように痛快に響くことはないし、誰かに気づきを与えることもないと思う。ただただ不快なものだから。 こういった問題は、昭和を経験した人間との間だけに起こるものでもない。電車に乗れば世代に関係なく他者の容姿をあれこれジャッジして盛り上がっている人間がいるし、友人と話していて「男なんだから」とか「女らしく」などの言葉を耳にすると、視界が揺らいでその場で崩れ落ちそうになる。がっくり。もちろんそこで私は異を唱えるわけで、場合によっては相手に変化を与えることにもなる。が、場合によっては流されてうやむやにもなる。いくら時代のスタンダードな価値観が変わっても、まったく変わることができない人がいるのも事実なのだ。 1970年生まれの原田泰造と阿部サダヲといえば、いわゆる“ロスジェネ世代”に該当する。1990年生まれの私は“ゆとり世代”の人間だ。こう括ってみることで見えてくる面白さもあるのだろうが、生まれてからたどる人生は一人ひとりまったく違う。昭和生まれの人格者もいれば、平成生まれでも非常に偏った価値観で生きている人間だっている。なかなか変わることができない人というのは、当人ばかりに問題があるわけではないのだろう。個々のバックグラウンドの違いも大きく影響するし、いま置かれている環境による影響も大きい。だからもしも他者の言動に違和感を覚えて異を唱えるならば、言葉を尽くしてみる価値はあると思う。『ふてほど』の市郎だって、令和の時代で変化しているのだから。 誰かの言動の違和感の正体は、コンプライアンスから逸脱した何かかもしれないし、あるいはコンプライアンスにがんじがらめになった何かかもしれない。世間と、他者と関わるためには、価値観のアップデートが必要だ。『おっパン』の誠も、『ふてほど』の市郎も、とにかく他者との対話を重ねている。自分のありのままを話し、相手の言葉に耳を傾けている。いまの時代のドラマに必要なのは、この本当の意味での対話なのではないだろうか。
折田侑駿