度肝を抜かれた「小学校の怪授業」から得た人生の教訓 なぜ人は文章を書くのか、なぜうまく書けないのか
「テイレシテンクルサ」 担任の朗読は完全に支離滅裂になっていて宇宙人の言葉のようだ。そこでいよいよ、たまりかねた一人の児童が声を上げた。 「先生、間違ってます」 その言葉に朗読が止まる。そして静寂。得体のしれない緊張感みたいなものが教室を満たしていた。 「なにが?」 本物の先生かも疑わしい存在は、いつのまにか支離滅裂な言語から普通の日本語に戻って答えた。 「ぜんぶです」 かなりの勇気が必要だっただろう。その児童は少し震えた声でそう答えた。
すべて間違っていると指摘された担任はさぞかし怒り狂うだろうと思われた。けれども、予想に反して、彼はただニカッと僕らには見せたことのないような笑顔を見せただけだった。 ■思い出されるあの日の授業 この原稿を執筆しながら、あの日の緊張した教室のことを思い出していた。担任の先生が異世界の言葉を話し始めたときは本当にただただ恐怖でしかなかった。なぜか、執筆を進めるとあの日の授業ばかりが思い出されるのだ。 なぜあの日の記憶ばかりが蘇るのか不思議で仕方がなかった。なぜなら、あの日の記憶と、執筆内容には一見するとほとんど関係がないからだ。
執筆していた原稿は、よく伝わる文章の書き方といったところから、なぜ伝えなきゃならないのか、なぜ文章を書かねばならないのか、そんな根源的な部分に差し掛かっていた。22年間もインターネットで文章を書いてきた僕が文章に対して主張したいなにかを書き殴っていた。 それと同時に、またあの日の担任の言葉が思い出された。 すべてが間違っていると指摘された担任は、これまで見せたことのない笑顔を見せてこう言った。 「今日の先生はすべてを間違えました。算数は国語になったし、漢字の読み方も違います。言葉も間違えました。あとジャージを着る方向も間違えています。ぜんぶ間違えました」
一呼吸おいて続ける。 「先生が間違わないと思ったら大間違いです。先生も間違えます」 そういった時代だったとはいえ、体罰も辞さず恐怖で支配していた先生は絶対的な存在だった。そんな先生が間違えるはずがないと思っていた。現に、算数の時間なのに国語の朗読を始める先生を見て、僕たちは自分たちが時間割変更を聞き漏らしたに違いないと考えていたのだ。間違えるのは僕たちであり、大人であり、先生であり、恐怖の対象である担任が間違えるとは思っていなかったのだ。だから僕らはそれを指摘できなかった。