生きられなかった妹たちに 満州からの逃避行の経験、絵画で伝える
91歳の画家 長野県佐久市の三石忠勇さん
画家三石忠勇(ただお)さん(91)=佐久市=の作品は、ソ連の対日参戦で余儀なくされた過酷な逃避行の経験に基づく。ソ連軍に投降後、母は2人の妹を手にかけ、三石さんは自決に失敗して生き延びた。「戦争は絶対にしてはならない」と訴える。 【写真】満州の大根畑で作業する三石さんたち。一部が検閲で消され、描き足してある 7歳になる1939年、南佐久郡青沼村(現佐久市)から母つ祢(ね)さん、3歳になる妹みや子ちゃんと満州へ移住。父登さんは小諸の薬店に勤めていたが、もともと三石家は小作農家。満州で地主になれる―との誘いに乗ったのか、先に渡っていた。満州で下の妹たみ子ちゃんが生まれた。 満州生活では、村に建立された諏訪神社の御柱祭が思い出に残る。全県から希望者を募った開拓団の団結の核として、内地の氏子会が社殿の造営費を寄進。団には諏訪出身者もおり、おんべを手に木やりを響かせた。臨時列車が運行され、近隣の都市などからも見物客が訪れた。「信濃村の一番いい時だった」 ただ、暮らしは軍の強い影響下にあった。実家の祖父母に送った写真。畑で草取りをする子どもたちの背景が、検閲で真っ白に消されていた。山々が連なり、諏訪神社が丘の上に立っていた。開拓団本部や個人家屋も見えた。ソ連との国境地帯のため、地形や建物の配置などが分からないようにしたのか。戦後に引き揚げてから、見慣れていた風景を鉛筆で描き足した。
45年8月。逃避行を始めて3日後、たどり着いた鶏寧(けいねい)でソ連軍から銃撃を受け、投降した。収容所では、足手まといになる子どもは処置された。母も覚悟を決め、まず3歳のたみ子ちゃんの細い首に手をかけた。数日前、昼食にパンを食べた際、「おててがばばく(汚く)なったね」と言う母に「もうじき死ぬんだから、いいねー」と返し、周囲をぎょっとさせた。「3歳の子がもう死を知っていた。恐ろしい話だ」 9歳になったみや子さんは「死ぬ時には先に死なせて」と母の前に座った。母は極力苦しませないよう、帯か何かで首を絞めた。「おまえは大きいから自分でやって」と言われた三石さんは、法被を裂いて縄をない、廊下のはりで首をくくった。だが縄がちぎれ、床に体を打ち付けて気を失った。次の機会をうかがっているうちに終戦になった。
生き抜くため、野菜のごみ捨て場から、しみたカボチャを拾って食べた。汽車の灰捨て場で燃料になるコークスを集め、金に換えた。ロシア語を覚え、ソ連兵に菓子を売った。46年秋に両親らと帰国。その後、営林署に勤めた。84年に当時の絵を描き始めた。 引き揚げ時、妹2人の骨の代わりに土を持ち帰り、墓に納めた。93~2004年に計4回、開拓団跡地などを訪問。鶏寧の街は様変わりしていたが、収容所の跡を突き止めることができた。線香を手向け、妹たちに手を合わせた。