硫黄島に「核兵器」があった…多くの人が知らない「米軍がやっていたこと」
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
硫黄島は核戦略の“目”に
どうして“こんなこと”になったのだろうか。 遡ると、1968年の小笠原諸島返還時に施行された「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」(暫定法)に辿りついた。 暫定法は第12条で、国に対して驚きの権限を認めていた。国が使用したいと判断した土地については「公示」の手続きさえ済ませれば、所有者不明の民有地であっても使用できるというものだ。この暫定法に基づき、返還日当日の「官報」に、防衛施設庁による「国が使用する土地についての告示」が掲載された。そのエリアはまさに在日米軍基地「硫黄島通信所」と一致した。 日本の領土に戻った硫黄島で、残留した米軍は何をしていたのか。『都内米軍基地関係資料集』によると、基地の使用者は〈沿岸警備隊極東支部・空軍第1956通信隊〉で、配属された軍人・軍属は〈約35名〉。任務は〈電波通信施設(ローラン)の操作〉だった。この施設は「ロランC」と呼ばれていた。 ロランCは〈太平洋における航行船舶及び航空機に自己の位置を確認されるための電波発信〉をすることが目的と記されていた。が、実態はどうだったのだろう。法学者の潮見俊隆ら編『安保黒書』(労働旬報社)はこう指摘している。硫黄島のロランCは〈ポラリス潜水艦に正確な位置を計算させ、ポラリス核弾頭弾を目標にむけて正確に発射させるために不可欠の施設〉だった。つまるところ〈米国の核戦略の“目”〉だったと指摘している。 米国側の記録によると、硫黄島から核関連の兵器がすべて撤去されたのは1966年6月だ。そして翌月に潜水艦基地のあるグアムに核兵器ポラリス・ミサイルが配備された。硫黄島返還の動きが日米間で本格化した時期と重なる。このことは、通信や潜水艦の機能向上により米国の核戦略が変わり、硫黄島内での核兵器は常時配備から有事配備に移行したことを物語る。 そして1968年に行われたのだ。米国側が硫黄島の「有事核貯蔵」を求めたジョンソン大使と三木外相の秘密裏の会談が。硫黄島の北部には、知られざる在日米軍基地が置かれ続けた。中央部滑走路は、日米地位協定に基づき、引き続き米軍も一時使用できる自衛隊施設となった。 滑走路は米軍が有事の際に核兵器を持ち込むために不可欠な施設だ。なぜ滑走路を米軍専用の「施設及び区域」として組み込まなかったのか。返還前と変わらず米軍支配が続くという日本側の批判をかわすために、硫黄島の実効支配を必要最小限にしたという思惑が透ける。
酒井 聡平(北海道新聞記者)