「おっとりしたところも」「最初は手塚治虫さんをまねして」 幼なじみが明かした「楳図かずおさん」“恐怖漫画の第一人者”までの道のり【追悼】
恐怖漫画の第一人者と称された楳図かずおさんは、人間の本質的な部分は恐怖につながっていると考えた。 【写真をみる)「楳図かずおさん」の貴重ショット 豊かな表情に引きつけられる
他の生物に食べられる恐怖が根源に残り、暗闇や動物の遠ぼえを恐れる。人間は恐怖を経験し、生き延びるために試行錯誤することで進歩したと捉えていた。 漫画に造詣の深い評論家の呉智英さんは言う。 「恐怖漫画という新しい世界を切り開いた。怪物が登場する怪奇漫画やドキドキさせるスリラー漫画はあったが、恐怖を中心に据えた作品はないに等しかった。生死に直結する怖さだけでなく、何が起きるか分からない状態、見てはいけないものを見ること、人間の心に潜む恐ろしさ、と単に怖がらせるのではなく恐怖を通じて人間の本質に迫った」
手塚治虫さんに感動して……
1936年、和歌山県の高野山生まれ。父親は小学校の先生で、蛇女のような地元の伝説を話してくれた。 43年、奈良県五條へ。幼なじみで交友が続いていた井上富雄さんは振り返る。 「かっちゃんと呼んでいました。4歳年上のおとなしい子で本が好き、おっとりしたところもある。手塚治虫さんに感動して最初はまねして描いていた。中学生の時には漫画家になると決心していた。よく歩いて漫画のストーリーを考えていました。数時間ぐらい平気。自分の中の自分と話をしておったのかもしれんね」 高校時代には漫画サークルの同人、水谷武子さんと「森の兄弟」を完成。卒業すると貸本向けの漫画家に。 「少女漫画のような女の子も上手に描いた。頼まれて漫画の背景を黒く塗ったこともあります」(井上さん) 絵もストーリーも独自の道を追求。蛇のような姿になった母親に食べられそうになる少女の物語は読者の心を揺さぶった。
表層的な評価しかされていなかった
63年に上京。小学校ごと荒廃した未来にタイムスリップする「漂流教室」は死の描写を厭わずに子供たちの生存を懸けた行動、心理、母親の思いを表現、「洗礼」では美につかれた母親が娘に自分の脳を移植して若さを取り戻そうと企む。こんな恐怖作品がヒットする一方で、幼稚園児が暴れまわるギャグ漫画「まことちゃん」も大人気に。追いかけられれば恐怖、追いかければギャグ、ものの見方の違いでしかないと考えていた。 意識が芽生えた産業用ロボットを描く「わたしは真悟」は、恐怖やギャグとは違う味わいだった。 「文学、映画、演劇、音楽などあらゆる80年代の文化のうち、最高の傑作でした。当時、取材をしましたが、作品の芸術的な価値を信じていた。売れていた一方、表層的な評価しかされていなかったのです」(呉さん) 漫画のキャラクターに頼らず、ストーリーを作ってきたと自負していた。 「東京から時々電話があり、ネタ切れや、と言うんです。1時間ぐらい雑談しました。ヒントを探しとったんやろうね。五條にも帰ってきて、私らと喋ったり、相変わらずよく歩いていた。道端でのサインにも気軽に応じていた」(井上さん)