「18歳で死ぬよ」誕生とともに余命宣告から始まった人生 落語家・三遊亭あら馬「あなたの保険証がほしい」でプロポーズし
■小学校6年生で「東京は庭だ」と思うも ── 東京への憧れはいつごろから芽生えたのでしょうか? あら馬さん:小学校6年生くらいからですね。父が税理士で、仕事で東京に行くときはよく着いていきました。竹下通りで芸能人のショップを見て、ひとりで街をぶらぶらするのが楽しくて。「東京は庭だ」って感じるくらいしっくり馴染んでいて、いつか「絶対にここに住むんだ」と決めていました。 そんな憧れもあって、高校時代からアナウンサーを目指して地元・鹿児島のアナウンサーの予備校に通っていたんです。大学は東京に行きたかったんですが、親に「大学までは鹿児島にいてくれ」と説得されて。「上京したら金かかって大変だぞ、貧乏になるぞ」って(笑)。結局、鹿児島の大学に進学しました。
大学卒業後は、キー局のアナウンサーになろうと必死でした。でも、キー局のアナウンサーは東京出身のお嬢様というイメージがあって。地方出身の工学部の私には、それが悔しかったんですよ。だから、ミス鹿児島コンテストに出てファイナリストまで行ったんですが、結局、フジテレビも日テレもテレ朝も全部、落ちてしまいました。 それでもアナウンサーの夢を捨てきれず、周りには東京で就職が決まったというフリをして、実は無職のまま上京したんです。
── 大胆な決断をされたわけですね。ご家族は体調のことで心配されませんでしたか。 あら馬さん:親は私の性格をよくわかっていて「この子は言うこと聞かないから」と諦めていたと思います(笑)。きっと反抗心しかない私を止めても無駄だと。22歳で東京に出てきて、まず4月に日テレ系のアナウンサー事務所に入ることができました。ただ、親を安心させるためには「就職」も必要で、それで5月にコンサル会社に就職したんです。アナウンサー学校とのかけ持ちという生活で。
そのコンサル会社では、私がアナウンサー志望だと知ってイベントの司会を任せてくれるようになりました。しかし、だんだんとほかのアナウンサーの仕事が増えていったため、結局1年もしないうちにコンサル会社は辞めて、フリーアナウンサーとして歩み始めました。 ── その後、アナウンサーとして順調に? あら馬さん:いえ、そんなに甘くなかったですね。アナウンサーの仕事よりも、再現VTRなどの女優業のほうが多くなっていきました。でも「自分は演技が下手だな」と感じていたんです。それで27歳のときに、演技力を磨こうと三宅裕司さんのSET(スーパーエキセントリックシアター)の研究生になったんです。1年間、歌や踊り、殺陣などを学びました。