古代最強の英雄・ヤマトタケルの憂鬱─毒親に悩んで愚痴をこぼしまくっていた!?─
記紀に登場する伝説の英雄・ヤマトタケル。彼にも悩みがあったようだ。 ■熊襲征伐で名乗った「倭」が「日本」となる 『古事記』によれば、「倭建命(やまとたけるのみこと)」が小碓命(おうすのみこと)といわれていた頃、天皇が「西の方にいる熊襲建(くまそたける)というふたりの兄弟を打ち取れ」とおっしゃった。小碓命は熊襲建の祝宴の女たちにまぎれこみ、懐から剣を取り出して兄の熊襲の胸を突き刺した。弟の熊襲建は逃げ去ったが、すぐにつかまり剣で刺され、熊襲建は「あなたはどなたですか」と尋ねた。 小碓命は「名は倭男那王(やまとおぐなのみこ)である」と答えた、ついで熊襲建が「西の方には私たちふたりのほかに猛々しく強い者はいないが、大和国は強い男がいらっしゃった。私はあなたさまにお名前をさしあげましょう」と申し上げた。そのときから「名前をたたえて倭建命という」と記す。 ここは「倭建命」の表記の意味を知るうえではなはだ大事である。 注目したいのは、「倭は国のまほろば、たたなづく青垣山籠(あをがきやまごも)れる倭(やまと)し麗(うるわ)し」との倭建命の望郷の歌である。おそらく「倭」は、奈良県の一郷名であったのが「大和国」という国名となり、その頃に熊襲征伐があったという意味ではないか。 一方、『古事記』の「倭建命」に対し、『日本書紀』では「日本武尊(やまとたけるのみこと)」と表記している。これは書名のところで述べたように『日本書紀』には対外的な意識が顕著にみられ、それと同時に天皇による国家統一の意味も含まれているからであろう。 スポーツの国際試合などでは、しばしば「日本頑張れ」という声援を耳にする。この「日本」は対外的・民族的な意識を内包している。だが、町内の運動会では「日本」との声援はない。町内には対外的・民族的な意識がないからである。 これと同じ意味が「日本武尊」のにも言える。「日本武尊」の「日本」には「やまと」のほかに「ひのもと」の意味もある。「日の本」が「やまとにかかる枕詞」ということに視点を置いて考えてみると、天皇の国家統一の意味をも含んでいることになる。 ■『日本書紀』は日本武尊の哀しみを何も語らない そこで、改めて「日本武尊」が何をしたかといえば、彼は南九州から東北に至るまでを旅して、天皇に服従しない勇猛な人どもの心を開いたといえる。人々が頑なに閉ざしていた門を開いた人物なのである。 また山の神・河の神・港の神に至るまで、すべてを言向(ことむ)け平らげた。それは秩序ある天皇政治を日本全体に実現するためであった。 したがって外国人を意識して書かれた『日本書紀』に、「日本武尊」の表記が用いられたのは当然といえるのである。 一方、『古事記』には西の方の熊襲のふたりを平らげ、帰途には出雲建(いずもたける)を征伐したのに対し、父の景行(けいこう)天皇は、重ねて「東方の12国の悪者どもを平定するように」との勅命を下す。天皇の勅命は絶対的なものである。倭建命は伊勢神宮を拝み、それから斎王であった叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)のところに立ち寄った。 そのとき、倭建命は倭姫命に「天皇の既に吾を死ねと思ふ所以や」と語る。「天皇は私なんか死んでしまえとお思いなのは、どうしてなのでしょう」という意味である。さらに兵士も十分には下さらないで12国の悪者どもの平定に派遣されたことから思うと、「猶吾を既に死ねと思ほし看すぞ」と患(うれ)い泣いた。 「死ね」という言葉を二度繰り返しているところに、本音が見える。「やはり天皇は私なんか死んでしまえとお思いになっていらっしゃる」ということで、この時の倭建命の「患(うれ)へ泣き」は、心の底からこみあげてくる哀しみの涙を物語っている。 『日本書紀』には、ここまで赤裸々な告白はない。『日本書紀』は建て前を記しているから、「兵士も下さらない」「死んでしまえ」などという表現はみられないのである。 『日本書紀』が、対外的に民族意識を高揚する目的で書かれたことを、日本武尊の章は物語っている。 監修・文/三橋健 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
歴史人編集部