J1湘南・鈴木雄斗が自己研鑽の先で投資に目覚めたワケ
アスリートでありながら、投資家としての意識を持つ「アスリート投資家」たちに、自らの資産管理や投資経験を語ってもらう連載「 アスリート投資家の流儀 」。水戸ホーリーホックを皮切りに、モンテディオ山形、川崎フロンターレ、ガンバ大阪、松本山雅、ジュビロ磐田と全国各地のJクラブを渡り歩き、今季から湘南ベルマーレでプレーする30歳の右ウイングバック・鈴木雄斗選手に話を聞きました。 2021年9月の山口智監督就任以降、2021年が16位、2022年が12位、2023年が15位と毎年のように厳しい戦いを強いられている湘南。今季も8月17日時点で17位と、ここからの躍進が期待されるところです。 その湘南に今季から加入し、右ウイングバックとしてフル稼働しているのが、鈴木雄斗選手です。鈴木選手は1993年、神奈川県横浜市生まれ。年代別代表や複数のJリーグクラブでゴールキーパーコーチをしていた父・康仁さんの職場移動に伴い、小学校時代は横浜から大分、柏(千葉)へ2回も転校。中学時代も柏レイソルU-15から横浜F・マリノスジュニアユースに移籍するという、慌ただしい思春期を送りました。 その後、横浜でユース年代を過ごし、J2・水戸でプロキャリアをスタート。今年で13年目になりますが、J1を制覇した強豪・川崎からJ2の地方クラブまで幅広い環境でプレー。ある意味、「日本サッカー界の奥深さを知り尽くした人材」と言えるでしょう。 紆余曲折のサッカー人生の傍らで、彼が注力しているのが投資。本格的に取り組み始めたのはコロナ禍の2020年だといいますが、今では午前練習開始前と終了後のマーケットチェックがルーティンになっているほどのガチ投資家。そんな鈴木選手のマネーとの向き合い方からうかがいました。 ■"意識高い系"アスリートだった若手時代 ――鈴木選手はプロコーチであるお父さんの職場移動に伴い、転々とする10代を過ごされました。一般的な会社員に比べて環境変化の大きい親御さんの仕事を目の当たりにして、子供時代からお金への意識が高かったのではないでしょうか。 鈴木:そうですね。プロサッカーコーチという仕事はいつクビになるかわかりません。そういう厳しさは子供時代から認識していました。「1つのクラブに5年いたら長いんだ」と感じていたし、次の仕事が見つからなくて苦労している人がいることも知っていました。ウチは家族みんなで父親についていくという方針だったので、自分も小学校3つ、中学2つに通うことになりました。 ただ、両親は投資とか資産運用というよりは、貯金が大事だと考えていた世代。母親は「サッカー選手になるのなら、何かあったときのために貯金をしておきなさい」とは言っていましたが、「投資をしなさい」とは言われたことはないですね。 ――お金に関して日本の中ではごく一般的な感覚の家庭で育ったということですね。 鈴木:はい。父親の仕事が不安定だった割に、僕はそこまでお金にシビアではなかったかな。むしろプロになってからは自分への投資は我慢することなくやっていました。 高卒で水戸に入った当時の給料は月20万円くらい。「ドーハの悲劇(1994年アメリカワールドカップアジア最終予選のイラク戦)」のときの日本代表キャプテンだった柱谷哲二さんが監督で、1年目から19試合に出させてもらいましたけど、勝利給がなければ手取りは20万円いかなかったですね。寮に入っていたので食費とか光熱費とかはそんなにかからなかったけど、ほとんど自由になるお金はなかったです。 それなのに、僕は1回1~2時間の体のケアに3万~5万円を惜しまなかったし、プロテインとかサプリメントといった栄養摂取のためのお金もバンバン出してました。 ■自己投資をやりすぎて家賃が払えず ――それはすごいですね。 鈴木:当時から代理人(契約や雇用条件をクラブと交渉する仲介人)がいて、J1トップ選手が行っているようなジムとかマッサージ施設とかを紹介してくれていたんです。「雄斗にはちょっとキツいよな」と代理人が遠慮がちになるような料金の高いところでも、「俺、行きます」と言うんで、向こうに驚かれたほど。プロ選手として成長するために一流のケアやトレーニングをすることは不可欠だと思ったので、あえてそうしたんですよね。 ――そうなると、お金はほとんど手元に残りませんね。 鈴木:そうなんです(苦笑)。母親からは「貯金しなさい」と言われていたけれど、実際には全然していなかったですね。プロ2年目の2013年だったと思いますが、銀行口座にお金がなくて家賃の引き落としができなかったことがあります(苦笑)。自分としてはそんなにお金がないとは思っていなかったんですよね。「これはマズいな。少しは貯めないといけないな」という自覚が生まれました。 ――当時は19歳ですから、いろいろなことに好奇心もありますよね。 鈴木:自動車は練習場や筋トレのジムに行くために不可欠だったので買いましたが、本当に安いものからのスタートでした。たまには友人と食事に行ったりもしていましたけど、基本はトレーニングのためにお金を投じていました。10代の頃は体の線が細くて、球際で負けることも多かったので、隙あらばトレーニングという意識でした。 当時は食生活にもすごくこだわっていました。筋トレのあとにプロテインを大量に飲んで、さらに30分以内に定食屋でご飯を食べるというのが日課。そうしないと筋肥大しないという思い込みがあって、縛られるようにやっていました(苦笑)。 ■ビッグクラブへの移籍で目覚めたこと ――“意識高い系”のアスリートだったんですね。努力の成果もあって、水戸には4年間在籍して、最後の2015年には27試合出場という好結果を残すことができました。 鈴木:プロ5年目の2016年に山形に行ったんですが、ある程度のまとまったお金をもらえるようになったのはそこからです。僕自身はプロ2年目から「J1でやれる」と思っていたけど、オファーが来なかった(苦笑)。そこは自分の力不足だったと思います。 結局、水戸で4年頑張ったけど、J1から声がかからなくて、同じJ2でJ1昇格が狙える山形にステップアップすることを決断しました。山形では2年プレーしましたが、2年目の2017年は10番をつけさせてもらって、31試合出場という結果を残せました。それでようやくJ1からオファーをもらえました。 ――2018年に満を持して移籍した先は、2017年にJ1を初制覇した川崎です。日本代表経験のある中村憲剛さん、大島僚太選手、のちに日本代表に定着する谷口彰悟選手(現シント=トロイデン)、守田英正選手(現スポルティング・リスボン)ら、そうそうたるタレントがそろった“絶対王者”でしたね。 鈴木:そのとおりです。2018年もJ1連覇をしたんですが、僕はそのメンバーに割って入れる気がしなかったですね。優勝が決まったときはうれしかったですけど、ホントにまだまだだと思い知らされました。 その後、どこでどういう練習をしていても「あのときの川崎はこんなレベルじゃなかった」と痛感します。高い基準を自分の中に持てたのは本当によかったと思いますね。 ――ビッグクラブで年俸も上がり、年齢も20代半ばということで、お金のことをより真剣に考えるようになったのではないですか。 鈴木:確かにそうです。その頃は不動産投資とかに興味を持ち始めて、いろいろな人に会って話を聞くようになりました。セカンドキャリアの話もあちこちで出るようになり、やっぱり経済的な問題がいちばん重要だと感じました。そのあたりから、ようやく動き始めた感じです。 J2で実績を積み上げて、ようやくトップクラスのJリーガーの仲間入りをした鈴木選手。25歳で結婚もし、将来のことを真剣に考えなければならない状況になったといいます。そこから彼はどのようにマネーと向き合い、どんなアクションを起こしたのか。そのあたりを次回の連載で深掘りしていきます。 元川 悦子(もとかわ・えつこ)/サッカージャーナリスト。1967年、長野県生まれ。夕刊紙記者などを経て、1994年からフリーのサッカーライターに。Jリーグ、日本代表から海外まで幅広くフォロー。著書に『U-22』(小学館)、『初めてでも楽しめる欧州サッカーの旅』『「いじらない」育て方 親とコーチが語る遠藤保仁』(ともにNHK出版)、『黄金世代』(スキージャーナル)、『僕らがサッカーボーイズだった頃』シリーズ(カンゼン)ほか。 ※当記事は、証券投資一般に関する情報の提供を目的としたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。
元川 悦子