筒井康隆『カーテンコール』で吐露された本音 SF第一世代の“最後の作品集”を読む
筒井康隆の『カーテンコール』の書評の依頼が来たとき、ちょっと複雑な気持ちになった。というのも、その数日前に豊田有恒の訃報に接し、SF第一世代で現役の作家は、筒井くらいになってまったと思ったばかりだったからだ。しかも本の帯を見ると「これがわが最後の作品集になるだろう。」と書いてある。その横に担当編集者の「信じていません!」という言葉もあるが、作者の年齢を考えれば本当であってもおかしくない。SF第一世代の作品を当たり前に読んで成長してきた一人として、やはり複雑な想いを抱いたまま本を開いたのである。 本書には25作の掌篇が収録されている。冒頭の「深夜便」は、深夜のバーの片隅(と書いてあるが、どこかあやふやである)で主人公が、自分の好きだった女性と結婚した友人と会話する。続く「花魁櫛」は、主人公の母親の遺品である花魁櫛が、どんどん高値になっていく。とらぬ狸の、わらしべ長者というべきか。欲とプライドの狭間で揺れる、主人公の妻の迎える顛末が強烈だ。 といった調子で一篇ずつ紹介してもきりがないので、注目すべき作品を幾つかピックアップしよう。「夢工房」は、ネジの二、三本外れた騒動が、老人ホームで繰り広げられる。作者らしい物語だ。リズミカルな文体でコロナ禍に振り回された国と人を皮肉った「コロナ追分」も、同じく作者らしい。 「産経新聞」2023年12月17日号に、本書についての作者へのインタビューが載っているが、そこで「コロナ追分」について、「昔ベトナム戦争をちゃかしたとき、『世の中には笑っていいことといけないことがある』なんて書かれたけど、僕はそうは思わない。自分一人がこういうことをやってきたから巨匠になれた、みたいな感じかな」といっている。昔から現在まで、作者の姿勢は変わっていないのだ。実に素晴らしいことである。 他にも「白蛇姫」「羆」「楽屋控」「武装市民」「横恋慕」などが、いわゆる〝筒井らしさ〟を感じさせてくれた。そうそう、映画出演をすることになった若手作家が、なぜか助監督から敵視される「楽屋控」は、物語の元となる実体験があるのだろうか。気になるところだ。 一方で本書には、ノスタルジックな作品も収録されている。幼い頃の自分を守ってくれた女中の思い出を語る「お咲の人生」、昔からのアングラ演劇ファンが二十年ぶりの興行に集まる「宵興行」、若手作家が向いにある婦人用品店の店員の娘と手を振り合うようになる「手を振る娘」など、一定以上の年齢の読者なら、郷愁を掻き立てられずにはいられない。 さて、そのようにパラエティに富んだ収録作だが、特に留意すべき作品が二つある。一つは「川のほとり」だ。51歳で亡くなった長男と、夢の中で作者が話すという内容だ。三途の川らしきものが見える場所で、これが夢だと理解しながら、話しているうちは息子が消えないと思う作者の姿に、やるせない気持ちが込みあげる。同時に、息子を失った悲しみすら物語にしてしまう、作家としての業に戦慄せずにはいられない。 そしてもう一つの作品が「プレイバック」だ。検査入院をしている作者のもとに、『時をかける少女』の芳山和子、『文学部唯野教授』の唯野教授、『富豪刑事』の神戸大助、『パプリカ』の千葉敦子など、自作の主人公が次々と訪れる。その後には、すでに亡くなったSF第一世代の作家たちも訪れるのであった。 ただしこの作品が執筆された時点では豊田有恒は存命であり、「ひとりだけ、存命する豊田有恒がいたが、彼は自分がどうしてここにいるかわからぬという戸惑いを表情に漂わせて周囲を見まわしている」という一文が、今となっては切ない。また、死んでいった仲間たちに向けた最後の叫びは、作者の本音であろう。前半の主人公たちとの会話では、自己の作品に対する評価をちゃかしながら、後半で本音を吐露する。筒井康隆という作家とその作品を考えるうえで、見逃すことのできない一篇なのだ。 なお本書の装画は、漫画家のとり・みきが担当している。カバーを取ると、本書の内容を踏まえた装画の意図が分かるようになっている。本が手元にある人は、ぜひとも確認してもらいたい。
細谷正充