「一条天皇の最期の願いもド忘れ…」道長の意外すぎる一面。強気に見える道長もいろんなミスをしていた。
この神鏡を改鋳(鋳造し直すこと)するかどうか、1006年に「神鏡定」が行われることになりました。 天皇の御前において、公卿が集まって会議が行われる中、道長・伊周・公任らは「祈祷や占いをして、その結果で判断するべき」と主張しました。その結果次第では、神鏡を改鋳してもいいとの意見でしたが、それは少数意見でした。多数意見は「神鏡を改鋳すべきでない」というものだったのです。 「このようなときには、道長は強引に自分の意見で推し進めていきそうだ……」と思ってしまいがちですが、実際はそうではありませんでした。多数派の意見が通ったのです。
「決定することは難しい」と道長も日記(『御堂関白記』)に書いているように、道長は強引な政務をすることはありませんでした。 また、人間ですからミスをすることもあります。 1013年の豊明節会(大嘗祭や新嘗祭の翌日に行われる宴会)では、本来ならば「刀禰(とね)召せ」(王卿に着座を命じる)と言うべきところで、「敷居に」と言ってしまい、「とても大きな失態だった。数年の間、このような失態をしたことはなかった」と大いに後悔しています。道長が40代後半ごろの話です。
言い間違いくらいならば、大した話ではありませんが、道長は、一条天皇からの「土葬にしてほしい」とのご意向(一条天皇の父・円融院の隣に土葬してほしい)を、失念してしまい、1011年の崩御後には、火葬にしてしまいました。 「何日か、まったく覚えていなかった。今、思い出した。しかし、すでに決まってしまったのである」と道長は言ったといいますが、これはもう、言い間違いどころの話ではありません。おそらく、意図的な嫌がらせなどではなく、道長は本当に忘れていた可能性があります。
また、娘が急に体調を崩したときも、道長は慌てふためいてしまい、やるべきこと(公卿などに禄を下賜)を忘れてしまいました。後になって、気が付くことになるのです。 ■命じた内容すら忘れる道長 1017年に土御門第(道長の邸宅)の倉に盗人が入ったときには、こんなこともありました。 道長は疑いをかけられた藤原高親を呼び寄せて事情を聞こうとします。しかし、高親は道長に仕えていた亡き藤原高扶の子であることが判明し、やはり召問はやめようということになりました。そのことを命じるため、道長は検非違使(都の治安維持を担う)を呼びます。