「誰もが大谷選手を目指さなくていい」 養老孟司さんが「夢を持たなくてもいい」と語る理由
大きな夢を持たなくてもいい
もちろん大谷選手を「見習おう」という人がいてもいいのです。でも、「ああいう人のまねはとてもできない」と思う人がいてもいい。 子どものうちにそういう考え方をすると、夢がない、覇気がないと批判されかねません。でも、誰もが大きな志を持たなくてもいいのではないでしょうか。 昔から道徳の教科書では、幼い頃から大志を持って努力した、寸暇(すんか)を惜しんで勉強した、という人が理想のように描かれています。二宮金次郎が代表でしょうか。 一方で昔から「三年寝太郎」や「わらしべ長者」のような話も言い伝えられています。三年寝太郎は、三年間ゴロゴロしていた男が、ある時急にやる気を出して、偉業を成し遂げるという話、わらしべ長者は、一本のわらを持っていた貧乏人が物々交換を繰り返すうちにお金持ちになるという話。どう考えても彼らは努力をしていないのに、人生がうまくいくのです。 単に面白い物語だと捉えるのではなく、ある種の真理だと考えてもいいのではないでしょうか。この寓話は、努力の放棄を勧めているのではなく、「一生懸命がんばる」こと一辺倒になってしまう風潮への注意書きだと読むべきではないでしょうか。「棚からぼたもち」です。
意識はそんなにえらくない
「がんばって何かを成し遂げる」ことを過大に評価する背景には、意識が一番えらいと思ってしまうヒト特有の性質があります。自分が(意識して)こうやったからこそ、こういう成果が得られた、と考えるのです。意識が世界を動かしているのだ、と。 でも、これは典型的な勘ちがい、あるいは思い上がりです。腸を意識して動かしている人はいません。勝手に動いてくれているのです。 針を呑み込んだらどうなるか。腸のほうが危ないと判断すれば、刺さらないように動かして、排出させてくれる。多くの場合、大事に至らないのはそのおかげです。 息を大きく吸って吐く、あるいは一定時間止めることは意識してできます。でも、完全に止めてしまうことはできません。またまったく何も考えていない間も呼吸はしています。そうでなければうかつに寝ることもできなくなる。 このように考えれば、意識というのはそんなにえらいものではないのは明らかでしょう。しかし、人工的な空間でだけ暮らしていると、そのことを忘れてしまいます。 私ができるだけ土や木のある環境で生活をするようにしているのも、そのほうが自然だからです。現在の都市生活がこのまま維持できるとはとても思えません。 そのことに多くの人が気づく日は、遠からず来るのではないでしょうか。
養老孟司(ようろうたけし) 1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。1989年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。2003年の『バカの壁』は460万部を超えるベストセラーとなった。ほか著書に『唯脳論』『ヒトの壁』など多数。 デイリー新潮編集部
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