【連載】三浦瑠麗が「夫婦」のあり方について問う連載「男と女のあいだ」 #3 男を巣立たせるということ
国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第3回は、夫婦を卒業することについてお届けします。 【写真】娘とともに作ったクッキー 本人提供写真 ■#3 男を巣立たせるということ わたしは昔から「ひとり」だった。一緒にいるあいだにそのことを理解できた男性は少ない。それはきっと相手の洞察力の問題というより、わたし自身の所為でもあるのだろう。女の母性が強ければ強いほど、自我が奥底に頑固に仕舞われて在ることが外見(そとみ)には分からないからである。人生で傷ついたのは、いつも外傷ではなく内面的な傷だった。それを誰かが救うことはできないし、わたしから人格を奪うこともできない。そのようにして、長い年月をかけて自ら生きようとし、立ち直ってきた。そんなわたしにとって、一方的に自らの一部であると見なされるのは愛した夫だった人であるとしても馴染めないことだった。 結婚が恋愛よりも怖いのは、誓いで交わした約束の言(ことば)の重さなどではなくて、堆積(たいせき)した時間とそこに落としてきた自分の諦めが重たすぎるため。恋愛ならば相手に真正面からぶつかってもよいが、婚姻となると全てを賭けてぶつかることがなかなかできない。だから、過去に子どもが大きくなったら婚姻関係を解消しようかということを軽い気持ちで話し合ったことはあったが、こうして向き合わなければ、到底離婚にまで辿り着かなかっただろう。 長きにわたり関係性を築いてきた夫婦の離別は、時間の蓄積ゆえに重たい。つい半身をずらし、その重たさから逃れたい衝動に襲われる。海の底を見下ろしつつ、そこにあるものを見つめる。踵(きびす)を返して立ち去りたいような、立ち去りたくないような。そこに、すでに諦めが揺蕩(たゆた)っている。一瞬一瞬を生きているあいだは、時は美しくみえる。けれども、死んで塊となった時は常に過去であり、その思い出がたとえ喜びであろうとも、生きていることへの悲しみを誘う。それが憂鬱のもとなのだろう。何かを求めて新しい所へ踏み出すよりも、意に添わないしんどい時間をやり過ごしてしまう方が楽なのだ。 結婚したのも初めてなら、離婚したのも初めてだった。離婚しなければ伝えられない言葉の数々があったと思う。献身という行為は、一見してする方が大変に思えるが、寧ろ止めるのが難しいということも分かった。喧嘩し、もう二度と子どもにも会わせない、というような別れならば分かりやすいだろう。しかし、離婚後も相手を友人として思い遣り、父親としての全き権利を損なわないようにするにはもう少しの工夫と努力が必要である。そのような離別は、ある意味においては子どもを巣立たせる行為に似ているのではないかと思った。 男を巣立たせる、そのことをわたしは「卒業」と呼んだ。こうした形の離婚に卒業という言葉を当てはめようと主張したのは、偶然にも同じ時期に離婚を決めた、仕事で得た友人だった。普段から頑張り屋で侠気(おとこぎ)のある彼女が、今後の人生においても自らに忠実に生きていくであろうことをわたしは疑わない。その人は子どもをしっかり頼もしい人に育て上げたのち、一線を引くことで、つれあいへの不満に終始する人生ではなく自らに真摯に生きる道を選んだ。 ◆ 夫婦というのは、多かれ少なかれ誤解の上に成り立っている。そこを敢えて突き詰めない方が上手くいくからである。例えば、姑がはたして本当に幸せであったのかどうか、今でも分からない。縁を得た当初は、自分は祖国アメリカにある母の墓の近くに眠りたいから、そこはあなたによろしく頼むと度々念を押されたものだ。大概、家族は本人の意思の領域にまで踏み込んで勝手に判断してしまうから、これはむしろ血の繋がらない間柄であるがゆえの信頼であった気がする。それでも、亡くなる前にはもう面倒だと言い、東京にある菩提寺の禅寺で構わないとした。その墓には、彼女がかつてお産で亡くした娘がひとり眠っていたが、それだけを理由に、彼女は墓について得心したのであった。 突然の訃報を聞いて駆けつけた時、妻に先立たれた舅は独りぽつねんと葬儀社の座敷に座り、通夜をしていた。自らに添うて長年異国の地に暮らし、終いには文字通り日本に骨を埋めることになった、妻の殊勝(しゅしょう)さ、健気さ。そうした理解でもって、彼はつれあいの決断をセンチメンタルに解釈していた。己に引き摺られた他者の運命をそうやって感傷的に捉えられる程度にまで、夫は妻を同化していた。それはやはりある種の愛の仕草なのだろう。傍目にも仲睦まじい夫婦ではあった。 しかし、墓のことは本当に面倒臭くなっただけかもしれない、とわたしは思った。60代で突然逝った彼女は、自分が先立つことを予め知らなかったであろう。それでも、夫を変えようとする自らの働きかけは徒労であることを彼女は悟っていたのではないか。国際結婚故ではない。極言すれば、そもそもすべてのことは初めから徒労である。徒労を悟ったからといって生きるのをやめるわけにもいかない。それに、女自身も、自分が何を求めているか分かっていないのかもしれないのだった。 家庭における男の存在意義について、わたしが先(せん)に落語家の師匠に問うたのは、現代における夫婦(めおと)論についての文脈であった。万が一、つれあいがいなくなれば、男は所在無いだろう。なぜ、その不安を感じて変わろうとしないのだろうと訝(いぶか)った。先立たれずとも、それぞれが長い老後の入り口に立った時、別々に生きる道がないでもない。つれあいの献身を当たり前のように受け取り、その代わり稼ぎを入れる。それが成り立っていた昭和のサラリーマン全盛期ならばまだ良いだろう。女には結婚よりほかにあまり良い選択肢がなく、娘たちは中流家庭で暮らす道筋から足を踏み外さないことが大事だとされた。いまの時代は女にも他の選択肢がある。 仮に、女が日々していることをすべて赤の他人に頼もうと思えば大変だ。住み込みの奉公人など廃れて久しいうえ、通いにしても労働条件を定めて雇い、辞められないよう気兼ねしながら教育するだけでどれだけの労力が必要か、考えてみれば気が遠くなる。だからこそ、そういった面倒なことをすべて会社にやってもらい、技能のある人を派遣してもらう外注サービスは価格が高く設定されている。ケア労働というのはもともと労働者にとって報酬が高い職種ではない。大変な仕事でなり手が限られていることもあり、適当な人は得難い。仕事の質を問えば猶更(なおさら)のこと、細かいところまでよく行き届く人、大切な人や物を任せられる人、心根の優しい人は値千金(あたいせんきん)の人材である。 家業をもつ女将(おかみ)さんという立場ではなくとも、ほとんどの場合、家庭は妻が回している。細々としたことにまで気の付く男性は少ないし、多くは神経質でもないだろうから、まるで妻に任せっきりにしてしまい、結果として自分の裁量や居場所がちいさくなることに無頓着である。さすがにわたしの世代には少ないだろうが、妻が入院などすれば生活できない男性というのが年長の世代にはいる。ちょっと吃驚(びっくり)する話だが、夫の食事をどうしよう、物の在り処も分からないのにと、自分が入院するのを躊躇(ためら)う女性がいるのだという。そもそも必要な物の在り処を自分で把握するか決めておかない男性というのは、日常生活の自己決定権を放棄してしまっている、誠に生きづらい存在なのではないかと思うのだけれども。価値観や生活スタイルが昔のまま歳を取った妻帯者が、急に単身になって暮らしたりすると、往々にして行き詰る。 ◆ 母がどれだけのことを毎日してくれていたのか、子どもを産んで初めてそれが分かるようになった。まして手をかけて五人も育て上げるというのは尋常ならざる苦労だったろう。ケア労働のしんどい部分は、相手の事情に寄り添わねばならないところである。外で働く人間は仕事に優先順位をつけなければやっていかれない。何年か働いて仕事に慣れれば裁量も与えられる。家族のためにのみ働く女は、相手の細々とした要求が次々降ってくるのに対して、必ずしも自分主導できっかりと優先順位をつけられず、そのためにあっちへもこっちへも仕掛かりが増え、休む暇がない。赤ん坊やちいさい子どもの要求ははてしない。病人の世話もそうであろう。これは相当な辛抱ができる人でないと務まらない。 わたしがちいさい時分に風邪を引いて熱を出した時などには、母が足の裏をずっと揉んでくれ、うとうとして目覚め、少し楽になるとりんごのすりおろしを作ってくれた。居間から続く畳の部屋の襖を開け放して横になり、母が台所で立てる音を聞くとはなしに聞いている。ああ、ほうれん草の根っこの泥を丁寧に水で落として洗っているのだなと思ったり、煮干しの出汁をひくほんのりと甘く香ばしい匂いで夕刻が近いことを知ったりする。自由の利かない病人に寄り添うことがどれだけの時間を費やし、また配慮を必要とするのか。その場その場は感謝しても、治るとすっかり忘れている。 いま、わたしは娘と5年ぶりくらいに密に接している。学校から帰ってくるときにどんなおやつを用意するか。ほぼ毎日考える。リンゴを煮たのであったり、フルーツケーキであったり、冷やし汁粉であったり。ときどき、フライパンで両面を焼いた生地にバターと砂糖をまぶしたクレープを作ったりすると、ただいま、と言ってその匂いを嗅いだだけで思わず笑みがこぼれているからこちらは嬉しい。反対に娘が、生憎クリスマスイブにインフルエンザにかかってしまったわたしの足を揉んでくれたこともあった。スーパーで一緒に買い物をした後、坂に差し掛かると重い荷物を代わって持とうとするその思いやりなどに、ときどきふと涙することがある。もちろん子どもは自分の欲望が先立つものだ。しかし、わたしのやり方をよく見ていて、ちいさいながらに我欲を戒め、それを懸命になぞろうとしているのである。 人生に5年、10年がむしゃらに働く時期があってもよいが、ある意味ではそれが落ち着いてよかったとさえ思う。娘と時間を過ごしながら、少し早めに人生の第三の時期について考えることができたからである。学業を修め、社会に参画していく時代。キャリアを築きながら忙しく働き、子どもを育てる時代、子どもが巣立った後に軽くなった責任のもと、より自由に生きる時代。身終(みじま)いの時代。 親子はいずれ双方が子離れ、親離れを経て、母子密着を卒業する。しかし、母にしてもらったこと、受け取ったものの数々は決して無駄にならずに豊かな記憶として心に残り、次世代へと受け継がれる。遠くに自分のことを案じてくれる母がいると思うだけで、仮に異国の地にあっても安心して頑張れるだろう。帰る場所があるからだ。反対に、男と女は夫婦を「卒業」しない限り、永遠に与える人と受け取る人の構図は変わらないまま。巣立って行かないからこそ、相互の依存関係から抜け出ることもない。 家庭内における男性の存在意義とは何かについて、口幅ったくも他所のご家庭に立ち入って尋ねたわたしは、どこか自己防御の本能からそう言ってみたかったのだろう。女はいったい何を欲望して生きているのか、という自問。自分が尽くしたいからやっているだけなのか。自らの本音がどこにあるのかを訝しく思いつつ、物事を看ているからこそ、男というものは一体に女の献身をどう解釈し受け取っているのかが聞きたかった。 とはいえ、男の答え方にも様々あろうし、「オレに惚れたから」は流石に言い過ぎでも、「家族ってそういうもんだろう」とざっくりと寄り切るような見解辺りがどうも定説になりそうである。その内心はこうかもしれない。「お前がオレを選んだんだから最後まで面倒を看ろよ」。そこで、女の言い分としては、「だったら私の言うことを聞いてよ」になるわけだが、管見(かんけん)の限り、こういうことを言う男が女の言うことを素直に聞いたためしはあまりない。 ◆ これまで、わたしは与えるという行為自体にあまり疑問を抱いたことがなかった。自分で進んでしていることでもあり、能力のある人間がより多くの負荷を担うことは寧ろ当たり前だと思っていた。今でも、少なからずそう思っている。けれども、もしつれあいが「他者」でないのならば、わたしがやっていることは、その一心同体の生物の手足の部分ということになってしまう。手がその身体が纏(まと)う衣服を洗い、自分の口に食べさせ、足が歩いて身体の休む場所を掃除する。手を怪我した時、頭や口はその痛みに対してわざわざ手に詫びはしない。そういうことだ。だとすれば女は服の縁取(ヘムライン)にすぎない。 いくら何でもそれは無理だろう、と思った。自分の自由な選択の結果としての献身、その前提がいつのまにか損なわれていることに気づいたのだった。悪気はなく、単に深く考えていないのかもしれない。そういう風に物事を見ていない、ただそれだけなのである。男に対して「母親」をやるべきではない、というのはよく指摘されることだが、自戒の念を込めていえば、やはりその通りである。過去の問題は措いてこれから先の生き方を考えた時、自立したひとり対ひとりの関係性として、友情や親子関係の再定義を図らなければいけないだろうとも思った。ちょうど娘もティーンエイジャーの仲間入りをしたのだから。 雁(かり)が飛んでいく光景を目にすることがあるだろう。その雁行の先頭を飛ぶ鳥は実は一羽ではなく、交代するのだという。先頭を飛ぶ際に失われるエネルギーがあまりに大きく、一羽では体力が到底持たないからだ。本来、家族もそのようで在らねばしんどいだろうと思う。個人の実感としては、家族の先頭を切り表に立ち、家の中でも働きながら皆を支えていたのはわたしだった。けれども、彼は彼でまた特殊な業界に偶然身を置き、別種のストレスに晒され、その消耗するエネルギーを恰も家族のために失っているかのように思い込んでいたのかもしれない。人間はいつも、大切なものを守ろうとして握り潰してしまう。その悲しみは深いものだろう。それを想うだけでわたしもまた悲しみに沈む。それでも、わたしはひとりで生きることを選ぶしかなかったのだった。 与えたい人であるというわたしの本質は変わらない。ただ、ひとりの人間で在りつづけるためには、男もまたいつかは自立させ、巣立たせなければならない。それは相手に母性からの自由を与えるということでもある。婚姻に纏(まつ)わる人びとの悩みは無数にある。離婚を選ぶ人もいれば別居婚を選ぶ人もいるだろうし、同居しながら少しずつ関係性を修正しようとする人もいるだろう。正解はない。人生の幸せの多くは取り立ててどうということのない部分にある。要は、どんな徒労をしたいかということに尽きるのである。