「野球ビジネスを変えた男」が群馬で挑む球都再生 千葉ロッテ、パ・リーグ、侍ジャパンの次は
荒木重雄氏と言えば、千葉ロッテ、パシフィック・リーグ、そして侍ジャパンなどで、多くの事業を推進したビジネスマンだ。その業績はつとに知られているが、その荒木氏が故郷の群馬県桐生市で「球都桐生」の再生事業に取り組んでいる。そこに至る歩みについて聞いた。 【写真でわかる】科学的データに基づいたトレーニングの様子 ■「思い出作り」でジャイアンツの入団テストを受ける 「私は3歳のときに、ある方から野球のユニフォームをプレゼントされました。稲川東一郎さんといって、桐生高校や社会人の全桐生を屈指の強豪に育て上げた名将で、桐生の名を『野球の都=球都』として高からしめた方がいらっしゃったのですが、その稲川監督の奥様からユニフォームをいただいたのです。実は稲川夫妻は私の両親の仲人でした。このときから私の『野球人生』は始まりました」
小中高と野球を続ける。桐生南高3年生の群馬県大会では、2回戦で前橋工と対戦。1年生の渡辺久信(現埼玉西武ライオンズGM)の投球を見て、これはレベルが違う、と野球選手になる道をあきらめ勉強に専念することにした。でも「思い出作り」のために、読売ジャイアンツの入団テストを受けたところ220人中の2人に残り、当時の巨人軍二軍球場であった多摩川グラウンドで二軍選手たちと練習した経験もある。 「でも、巨人の二軍の練習はすさまじく厳しくて、体力的についていけなかった。それで今度こそプロ野球選手になるのをあきらめ、大学に進みました」
大学でエンジニアリングを学ぶ傍ら、野球をした。大学卒業後はIBMに入社する。 「1985年に通信の自由化で、NTT以外の企業も通信事業に参入することが可能になり、IBMに通信網技術の部署ができて、そこに配属されました。通信網開発のエンジニアとしてキャリアをスタートしました」 入社後も週末はIBMで27歳くらいまでオール調布で社会人野球をしていた。どこまで野球が好きなのか、と思う。 「当時、通信技術はアメリカが先行していたため、技術書は全部英語でした。必死で勉強をしてTOEICで905点を取るまでになりました」