「もういない」発言でも話題に アイヌの歴史と文化とは? 谷本晃久・北海道大学大学院准教授
明治維新以後のアイヌ
明治維新以後、政府は北海道の大部分を「無主地」とみなした。そのうえで、各地に「原野」を設定し、従来あったアイヌの土地利用権を顧慮せず、そこへ本州方面からの入植者を募り、「殖民地」を区画して土地を割り渡した。 当局は、殖民地を区画する際に、「旧土人保護」の名目で、もともとそこで暮らしていたアイヌの居留地を設けることがあった。この居留地を、「旧土人保護地」と称する。「旧土人」とは、アイヌの人々を指した当時の行政用語である。これによりアイヌの人々の多くは、それまでの居住・用益地を追われ、「保護地」へ押し込められることが常態化した。 1899年に公布された「北海道旧土人保護法」(1997年廃止)は、「保護地」をアイヌに農地として給付するとともに、教育・衛生を保障しようとした法律である。しかしアイヌを、人種や民族に優劣をつけて考える社会進化論の考えに基づき劣等視し、教育は日本語で行う一方で、一般児童より簡易なカリキュラムの特別学校を設けた。下付地の売買には、「無知」な「旧土人」がだまされないようにとの名目で、道庁長官の許可を必要とした。当事者にとっての不利益を内包するこうした施策に対し、当時から不満を訴え改善を求めるアイヌの人々の行動が見られたことも、近代アイヌ史の重要な側面である。
このように、明治維新以降、すなわち近代の北海道、ひいては日本の社会には、アイヌの家庭に生まれることが、社会・経済的な不利益を蒙ることを余儀なくされる構造があったということになる。国の政策に起因する不利益ということでいえば、より大きな影響を蒙ったのは、ロシアとの国境地域に暮らした千島列島やサハリンのアイヌの人々である。 樺太・千島交換条約、ポーツマス条約、そして第2次世界大戦敗戦に伴い引き起こされた、日露両国間の度重なる国境の変転が、この地域のアイヌの人々に、居住地の移転を強いた。戦後の「引き揚げ」に伴い旧樺太から移住して来られたサハリン・アイヌの人々の御子孫は、主に北海道で、厳しい環境の下、その文化伝統を将来につなぐ努力を重ねられている。しかし、同じく北方領土・色丹島から移住して来られた千島アイヌの伝統を伝える方は、この地球上に一人もおられない。このことの意味を、私たちは考える必要があるだろう。 このようにアイヌの文化は、和風文化、琉球・沖縄文化とともに、わが国における固有の伝統文化のひとつである。沖縄に国立劇場があり、東京・京都・奈良・大宰府に国立博物館があるように、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせ北海道白老町に設置予定の「民族共生の象徴となる空間」に、アイヌ文化を対象とした国立博物館が置かれる予定だ。アイヌの人々の蒙ってこられた社会的な不利益の歴史的経緯とともに、その文化伝統の豊かさを自覚的に共有することは、現代日本社会に暮らすものの素養といえるのではないだろうか。 -------------------- 谷本晃久(たにもと あきひさ) 北海道大学大学院文学研究科准教授。専門は日本近世史・北海道地域史。著書に、『近藤重蔵と近藤富蔵』(山川出版社)、『蝦夷島と北方世界』(共著、吉川弘文館)など。