『最後の晩餐』なのに質素な食事、ユダヤ教徒が固く信じるその解釈とは
■ 『最後の晩餐』をユダヤ人はどう解釈するのか? ここに描かれている全員は、キリストも含めてすべてユダヤ人である。ただし、彼等はオーソドックスなユダヤ教徒(正統派ユダヤ教徒)ではなく、キリストを中心とする新興新派のユダヤ教徒である。 2枚目の方の絵を注意して見れば、おかしなことに気が付くであろう。テーブルの上には豪華に盛り付けた皿はなく、ポツポツと貧相なパンのようなものなどが置かれているだけである。 晩餐というにはまったくそれらしい料理が置かれていない。それなのに、この絵を「最後の晩餐」と言うのはまったくおかしい。それとも、これから給仕が料理を運んでくるというのであろうか。 だがそれも、一流のホテルで食事をしている訳ではあるまいし、そもそもダ・ヴィンチが描いているこの絵画の中に、給仕などという者は存在すらしていない。 実はユダヤ教徒の間では、これは自分達にとって重要な宗教儀式である「パスオーバー(Passover:ヘブライ語でペサハ〈Pesach〉)」のセイダー(Seder:イギリス英語ではセダー)の場面を描いたものだと固く信じられている。だからこそ、テーブルの上には料理らしいものがほぼ置かれていないのである。 キリストを始めとした全員が正統派ユダヤ教徒ではないとしても、ユダヤ教徒なら誰もがおこなう宗教儀式「パスオーバー」の食事・セイダーの場面をキリストが主催しているのが、この絵である。 これがユダヤ教徒の解釈で、たしかにこの時点でキリスト自身もその弟子達も「キリスト教」という新しい宗教を創設しておらず、彼等はユダヤ教の新興一分派という位置づけに過ぎなかった。 ここで、「パスオーバー」とは何か、セイダーとは何かについて、話しておかなければならない。それこそが、この絵の主題だからだ。
■ ユダヤ教の宗教儀式「パスオーバー」とは何か 「パスオーバー」とはエジプトで奴隷になっていた60万人以上、いやおそらく100万人超のユダヤ人達がモーゼに連れられてエジプトを脱出する、その直前にあった事件が元になっている。 脱出を認めないエジプトのファラオに対し、神は懲罰の決定打を与えられた。その決定打というのが、エジプト中の家庭において、その家庭の第一子がすべて原因不明の死を遂げるというものである。 神はファラオにもその懲罰をお与えになり、ついにユダヤ人の奴隷達は脱出を勝ち取ることができた。そこで出てくるのが、「パスオーバー」という場面である。 そしてユダヤ人達は、それから数千年経った今日に至るまで、毎年春の一時期に「パスオーバー」の儀式をおこない、エジプト脱出の苦難を現代においても再現する。民族の、特に祖先の苦難をもう一度嚙みしめる儀式が、毎年春に巡って来る「パスオーバー」の儀式なのである。 その儀式の中心が、セイダーという貧しい食事である。晩餐と呼べるような豪華なものでは決してない、きわめて貧しい食事をユダヤ人達は現代に至るまで毎年約1週間ほど食べ続け、エジプト脱出の祖先の苦労を追体験する。 祖先はエジプト脱出の時に、着の身着のまま慌てて脱出したので、パンにイースト(酵母菌)を入れて焼く時間すらなかった。そのために酵母菌を入れてふっくらと焼かれたパンではなく、酵母菌を入れないカリカリのクラッカーのようなぺしゃんこの固いパンを食するのである。それをマッツォ(Matzo)という。 このダ・ヴィンチの絵のテーブルの上に置かれている、パンのように見えるものがマッツォである。いかにもガチガチに固まって干からびているように見えるが、これこそユダヤ人がエジプト脱出の際に作ったパンの固まりの姿そのものなのである。 そしてユダの前に、ユダが誤ってひっくり返した塩の壺がある。この塩はなぜセイダーのテーブルの上に載っているかというと、この塩の粒を皿の中に溜まっている水に振りかけて、それに苦い菜っ葉(苦菜)を浸して食べるというセイダーの儀式があるからである。 この塩水こそ、ユダヤ人がエジプトでの苦難の期間に流した汗と涙を象徴する塩水といわれている。だからテーブルの上には塩が置かれているのである。 決定的証拠は、“食べることのできない”焼骨片(Shankbone:シャンクボーン)がいくつかの皿の上に置かれていることである。ユダヤ人がこの絵を見れば、肉を食べた後の骨ではなく最初から皿の上に置かれていたのだと、すぐに察することだろう。 我々ユダヤ人はかつてエジプト脱出の際に、身の回りの道具や着替えもろくに持たず、この羊の足の骨やガチガチのパンを持ち、家を捨てたのである。