『海に眠るダイヤモンド』は朝子の人生そのものだった 最終回は視聴者の“ダイヤモンド”に
時間の流れに賭け、すべての思いを抱えて今を懸命に生きる
すべてを知ったいづみを連れて、玲央は再び端島に行こうと誘う。以前、玲央と端島に向かったときは、島が近づくにつれてまるでまだ生々しい亡骸を目の前にするような心境だったいづみ。だが、鉄平のその後について知ることができた今は、もう黒いダイヤモンドになっていたのかもしれない。上陸するやいなや、一気に蘇っていく端島の記憶。もちろん年齢を重ねて、ぼんやりとしていた部分もあってもおかしくない。だが、実際に古いあのころのフィルムを見てみると、瓜二つと言っていた鉄平と玲央があまり似ていなかったことに思わず笑ってしまった。 だが、会いたい気持ちが他人の空似を創り出す経験をしたことがある人は、少なくないのではないだろうか。別れてしまった恋人、疎遠になった友人、亡くなった家族……もう二度と会えないと思う人の面影が宿るような瞬間があるのだ。それが、何十年前の記憶となればなおさらだ。それだけ、彼女の人生でやり残した大きなことだったとも言える。 そんないづみの積年の想いを、玲央が叶えてくれたという意味では、「時間の流れに賭けた」と賢将が言ったように「神の思し召し」といわれる領域の出会いだったのかもしれない。ふと、いづみが思いを馳せた心の中の端島に涙腺が刺激された。今はもういない愛しい人々が、こんなにも生き生きとしている。端島に置いてきた、記憶という名のダイヤモンドがキラキラと輝く。 生前、鉄平が置いていったというギヤマンも、端島に置いてあった。それは朝子には物理的には届かなかったけれど、今こうして心の中で受け取ることができた。その眩しく温かな光景に、人が生きる上で避けることのできない「寂しさ」を抱きしめてもらったような気がした。命あるものは必ず、その終わりを迎える。見送り、見送られ、そして時の流れとともに忘れ去られていく。それでもすべてを抱えて今を懸命に生きる。たとえ旅立っていってしまっても、会いたい人たちは心の中で笑っていてくれるはずだから。そして、いつか自分がそっち側に近づいたときには「きばって生きたよ」と過去の自分に笑いかけてあげられたら。そんな人生を精一杯生きたいと思わせてくれるドラマだった。
佐藤結衣