【光る君へ】ヒール「藤原伊周」がやっと復権も… ふたたび自滅し無残な最期を遂げるまで
伊周による道長殺害クーデター情報
前述したような事情で、なんとしても彰子に皇子を産んでほしかった道長は、寛弘4年(1007)8月、吉野(奈良県吉野町)の金峯山に登山した。修験道の霊地である金峯山に参詣するためには、3週間とも50日とも、あるいはそれ以上ともいう厳しい精進潔斎を行う必要があるが、道長はそれをこなして参詣した。 道長は自身の日記『御堂関白記』にも、そう書いてはいないが、参詣の目的が彰子の皇子出産祈願であることは、だれの目にも明らかだった。むろん、それは伊周には都合が悪い祈願である。 藤原実資の日記『小右記』は、このころの記事が欠損しているが、後世の人がその内容をまとめた『編年小記目録』には、8月9日の日記の内容が記されている。それによれば、伊周と弟で「光る君へ」では竜星涼が演じている隆家が、平致頼と結託して道長を殺害しようとしていたという。 それが事実であったかどうか確認する術はない。だが、『大鏡』にも、道長が金峯山詣での途中で伊周が不穏なはかりごとをめぐらしていると聞き及び、警戒を強めたという旨が記されている。少なくとも、伊周によるクーデター情報が流れていたことはまちがいない。ただし、このときは伊周が罪に問われることはなかった。 結果としては、道長の念願がかない(伊周の願いは空しく)、中宮彰子は懐妊し、寛弘5年(1008)9月11日、敦成親王を出産した。
デリカシーに欠けるパフォーマンス
それから100日が経ち、敦成の「百日の儀」が彰子の在所で行われたのは、12月20日のことだった。そこで伊周は悪あがきともいうべき必死のパフォーマンスを示している。このときのことは、道長は『御堂関白記』に、実資は『小右記』に書き残しており、それによれば、ドラマでは渡辺大知が演じている藤原行成が、公卿たちが詠んだ歌の序題を書こうとしていたという。そこに現れ、行成から筆を奪って自作の序題を書いたのが伊周だった。 その序題の中身が『本朝文粋』に収められているのだが、こんな内容なのである。 「第二皇子百日ノ嘉辰禁省ニ合宴ス。(中略)隆周之昭王穆王ハ暦数長シ。我ガ君又暦数長シ。我ガ君又胤子多シ。康イ哉帝道。誰カ歓娯セ不ラン」 つまり、敦成親王のことを、自分の甥である敦康親王に次ぐ「第二皇子」と明言し、「隆周の昭王」という語で道隆と伊周父子の繁栄が「長い」ことをアピールし、さらに一条天皇は在位(暦数)が「長い」ばかりか「胤子が多い」、つまり子供が多く、敦成のほかにも皇子がいることをアピールしている。 敦成親王の祝いの場でそんな訴えをしても顰蹙を買うばかりなのに、デリカシーに欠けるパフォーマンスをせざるをえなかったのだろう。伊周がいかに追い詰められていたかをよく表している。だが、やはり、待てばよかったのである。