昭和99年 校則編 服装の乱れは心の乱れ 髪型から靴下まで指定 ルール守る大切さ学ぶ
「服装の乱れは心の乱れ」。かつての中高生は「標準服」を着て、髪型も一緒だった。それが学校のルールだったから。破ろうものなら「厳しい指導」が待ち受けていた。みんな心にモヤモヤを抱えていたのだろう。♪この支配からの卒業―。そう歌ったシンガー・ソングライター尾崎豊さんは、若者の代弁者として10代の心をつかんだ。校則を巡る当時の福島県民の思いを聞いた。 「中学って、そういうもんだと思っていた」。いわき市で写真館を営む緑川貴之さん(60)は昭和50年代前半に地元の植田中で送った学校生活を振り返る。男子の靴下は黒一色のみと決まっていた。学校の入り口には定規を持った教師が門番のように立ち、女子のスカートが長過ぎたり短過ぎたりしないか測った。 しかし、3年生で生徒会役員になると「白い靴下でもいいのではないか」という声が生徒や一部の教師から上がった。「よし、生徒会の総会で校則を変更しよう」。仲の良い友人に提案動議を出してもらう段取りを整えた。だが当日、動議を求める声は上がらず、改革は幻と消えた。「校則を変えようなんて、普通は考えなかった。緊張して、ためらったんじゃないかな」と友人の心中をおもんぱかる。
当時の校則について緑川さんは「今にして思えば校則の順守を通じて、社会に出た際のルールや法律を守る大切さと、違反した場合には罰則もあり得るという厳しさを学ぶ機会となったと思う」と振り返る。 会津若松市で保育園などを経営する起業家山口巴さん(54)にとっても、事細かに決められた校則は当たり前だった。進学した高校では週に1度、「校則検査日」があった。眉よりも伸びた前髪ははさみで切られ、染めるなんてもっての外。地毛が茶色の生徒は、“証明書”の提出を求められた。「今となっては理解できる部分もあるけど、本当に必要なのかと思う規則ばかりだった」と笑う。守るべき校則も確かにあるとした上で「個性を認める『緩さ』があれば、低い傾向にある現代の子の自己肯定感も上がっていくのでは」と今だからこそ思う。 ■多様性重視し見直し 郡山の富田中 ツーブロックなど男子の刈り上げOK 福島の岳陽中 猛暑対策、登校は半袖半ズボン運動着