『厨房のありす』は私たちを優しく包む 他人に迷惑をかけながら生きることに与える許し
田舎から上京してきたばかりの頃、驚いたことがある。人身事故による電車の遅延に巻き込まれた大学の友人が「死ぬのは自由だけど、他人に迷惑かけるなって感じだよな」と言ったのだ。正直、ショックだった。だって自ら命を絶ったその人に、他人に迷惑をかけるとか、かけないとか、考えられるほどの余裕なんてきっとなかったはずだから。あるいは自分なんて生きていても周りに迷惑をかけるだけだ、と苦しんだ末の行動だったのかもしれない。 【写真】赤ちゃんを前にして驚くありす(門脇麦) 想像力がなさすぎる、とその時は思った。けれど振り返ってみたら、その日は授業でグループ発表があって、友人は自分の遅刻でみんなに迷惑をかけてしまったという罪悪感や焦りから、ああいう言い方をしたのかもしれないと今なら思いを馳せることができる。何が言いたいかというと、それほどまでにおそらく多くの人が子どもの頃に親から教えられた「他人に迷惑をかけてはいけない」という言葉に縛られているということだ。 日本テレビ系にて毎週日曜22時30分より放送中の『厨房のありす』は、その呪縛から私たちを解き放つ代わりに、また新たな1週間を送る上でお守りとなるようなメッセージを与えてくれる。 本作は、膨大な化学の知識を基においしくてやさしいごはんを作る料理人・ありす(門脇麦)を中心としたハートフルなストーリーに、ありすの出生や、彼女の料理店に転がり込む青年・倖生(永瀬廉)の過去にまつわるミステリーを掛け合わせたオリジナルドラマ。一つ屋根の下で暮らし始め、やがて倖生に初めての恋をするありすをそばでハラハラと見守っているのが父親の心護(大森南朋)だ。 化学という共通言語を有するありすと心護は仲良し親子だが、実は血は繋がっていない。ありすが3歳の時に母親が火事で亡くなり、同僚だった心護が引き取って男手一つで育ててきたのだ。けれど、ありすはASD=自閉スペクトラム症で、その特性ゆえに物事へのこだわりが強く、人とのコミュニケーションが苦手。保育園でもたびたび友達とトラブルになり、心護は保護者会で理解や助けを求めたところ、唯一手を上げてくれたのがありすの幼なじみである和紗(前田敦子)の親だった……という過去のエピソードをはじめ、このドラマは他者を頼ることの大切さを伝えてきた。 ただ私たちは人の手を借りること=迷惑をかけることと思っている節があり、そこには“罪悪感”が付きまとう。ありすもそれは同じで、ふとした瞬間に「私は守られてばかり」「みんなに迷惑をかけている」と視線を落とす姿が印象的だ。並外れた記憶力と料理の才能を持ったありすは、いわば“天才”。けれど、彼女自身は“普通”に憧れている。光や音を気にせず歩けて、空気が読めて、柔軟に相手に合わせ、うまく人と付き合える。そういう“普通”に。 でも、ありすが思う普通の人にも悩みはある。ありすのお店にやってくる常連客もそう。息子の受験に思い詰める主婦や、好きな人の気持ちを測りかねているOL、夫との離婚を考えている妻など、いろいろな問題を抱えている。もちろん、障害のある当事者にしか分からない苦しみがあり、私たちが抱えている悩みと比べられるものではないのかもしれない。だが、第8話における和紗の台詞にもあったように、障害があってもなくても、人間は誰しも一人では生きていけないのだ。心護や和紗たちの助けを借りながら、料理人として常連客の身体と心にエネルギーをチャージしていくありす。彼らはまるでパズルのようにお互いの凸凹を埋め合っている。 倖生はありすの料理店にやってくるまで、ある“罪悪感”を抱えていた。自分はゲイである父親が世間体のために結婚して生まれた子ども。いわばウソをつくための道具であり、自分が生まれてきて幸せになった人なんていないと思いながら生きてきた倖生。そんな彼がありすと出会い、心から必要とされることで自分を少しずつ許せていく過程があたたかい。 「ありすはいつも人生で今が一番嬉しいって思わせてくれて、その次にはその気持ちをさらに更新させてくれるんだよ」と心護に言われて育ったありすが、倖生に「倖生さんが生まれてきてくれて、今まで生きていてくれて、すごく嬉しいです」という言葉を送る。あなたが生きていることが嬉しい。不器用で愛おしい登場人物たちの姿を通して、本作は私たちに他人に迷惑をかけながら生きることに許しを与える。最終回は目前だが、ありすと倖生が何の罪悪感もなく笑い合えるラストを期待したい。
苫とり子