F1から市販車までなんでもござれの天才エンジニア! 「ゴードン・マレー」の業績があまりに凄すぎた
F1とスーパーカーの業界に現れたひとりの天才
2020年8月4日、「T.50」とネーミングされた一台のスーパーカーがデビューを飾った。それはF1やスーパーカーのファンにとってはビッグネームともいえる、かのゴードン・マレーによって設立された、ゴードン・マレー・オートモーティブから生み出されたファーストモデル。 【写真】6戦中4勝でぶっちぎり! 国産勢が敵わなかった「ラーク・マクラーレンF1GTR」とは その詳細については後述するとして、今回はゴードン・マレーという天才的な自動車エンジニアが、これまでに残した足跡を改めて振り返ってみることにしたいと思う。 南アフリカに生まれたマレーがレースエンジニアとしての職を求めて単身イギリスへと渡ったのは、彼がまだ23歳のときだった。当初はロータスカーズでの就職を希望していたというが、偶然にも当時ブラバムのデザイナーであったロン・タウラナックと出会ったマレーは、ブラバムでの仕事をオファーされる。 そしてバーニー・エクレストンがブラバムを引き継ぐと、マレーはチーフデザイナーへと抜擢。ここから多くのF1マシンをデザインしていくことになる。「ファンカー」としても知られる「BT46B」や、チャンピオン・マシンとなった「BT49」、「BT52」などは、ブラバム時代のマレーが残した代表作だ。 1973年から1985年にかけて、マレーが設計したブラバムはトータルで22勝をあげ、1975年と1981年にはコンストラクターズ選手権で2位という成績を残した。1981年と1983年には、ネルソン・ピケにドライバーズ選手権をもたらすなど、マレーのブラバムへの貢献度はじつに高いものだった。 しかし、彼の心の中にはF1以外にもうひとつの夢が常にあった。それは究極のロードカーを作り出すこと。そして1986年、マレーはロン・デニスからのオファーを受けマクラーレンに移籍。そのときの条件は、3年後にはF1マシン以外の新しいロードカープロジェクトを用意することというものだったという。実際に彼は1991年にはロードカーを開発、生産するマクラーレンカーズへと移籍。かの「F1」やメルセデス・ベンツとの共同プロジェクトである「SLRマクラーレン」の開発に関係した。