『海のはじまり』第7話 何を描き、何を描かないのか…取捨選択に作り手の信念を見る
Snow Manの目黒蓮が主演を務めるTVドラマ『海のはじまり』(フジテレビ系)の第7話が、8月12日に放送された。今回のエピソードの実質的な主役は、津野(池松壮亮)。水季(古川琴音)の同僚だった彼は、明らかに夏(目黒蓮)に対して敵意のまなざしを向けてきた。果たして彼と水季とのあいだには、どんな物語が紡がれていたのか。この第7話では、回想形式でその事実が明かされる。(以下、ドラマのネタバレを含みます) 【関連写真】ドラマ『海のはじまり』より夏(目黒蓮)&海(泉谷星奈) 同じ図書館で働いていた二人の関係が大きく変化するきっかけとなったのは、娘の海を連れてきた水季に、津野が「大変じゃない。無理しないでね」と何気ない一言を言うと、「みんなそういうんですよね。(中略)いや、無理しないと私も子供も死んじゃう」と反応したことだった。一人で子供を育てることの大変さを、表面的には優しい言葉でくるんで、人は簡単にパッケージングしてしまう。そこを突かれた津野は、子育ての協力を申し出る。 まるで本当の親子のように、海の世話をする津野。水季が病院で倒れたときは、母親が苦しむ姿を見せないように海を連れ出したりもした。彼は同僚以上の気持ちを水季に抱いていたのだろう。水季の訃報を電話で知ると、彼はひとり涙に咽ぶ。 水季が亡くなったあと、彼はかつて彼女が暮らしていたアパートを訪れる。そこには、荷物の整理をしている母親の朱音(大竹しのぶ)がいた。「手伝います。海ちゃんのもの、だいたい分かるので」と申し出るが、「触らないで。家族でやるので」と強い口調で拒否されてしまう。 自分は家族でなく、部外者。朱音の言葉によって、彼はそんな想いを強く抱くようになる。だからこそ、水季と海に対して何もしてこなかった夏が、家族として迎えられていることに苛立ちを覚えるのだ。今回のエピソードでは、津野の過去を丹念に描くことで、キャラクターの深みが増し、ドラマはより立体的となった。
エモーショナルな表現のためだけの描写には逃げない
『海のはじまり』というドラマには、「何をドラマとして描き、何をドラマとして描かないのか」という取捨選択に、作り手の信念が感じられる。第7話では、特にそのスタンスが強く強調されていた。例えば、水季が母の朱音に病気を告白する場面。「なんかわたし、ダメっぽいんだよね」「なに?ダメって」。この会話のあと、場面は水季が病室にいるカットに切り替わる。 凡百のドラマであれば、我が子が長く生きれないことを知った母と娘の、嗚咽と涙の濃厚なドラマが繰り広げられることだろう。だが、そんな展開は誰の目にも明らか。お決まりの台詞とお決まりの描写で視聴者の涙を誘うことは、このドラマの本意ではない。であれば潔くそのシーンは削除して、次の場面へと繋げていったほうがいいのではないか…。そんな作り手の想いを筆者は(勝手に)感じてしまう。 水季の四十九日法要も同様だ。家族が故人を偲び、冥福を祈るための大切な儀式。これまた凡百のドラマであれば、涙に暮れる家族の姿を捉える絶好の機会と考え、この場面をインサートするだろう。だが本作では、四十九日に出かける直前の様子は描くものの、肝心の法要は描かない。儀式そのものを映し出しても、そこにあるのは形式的な描写にすぎないからだ。 エモーショナルな表現のためだけの描写には決して逃げない。『海のはじまり』が一貫して続けてきたスタイルが、特にこの第7話には凝縮されている。第8話では、夏の実の父親が登場することがアナウンスされているが、次回以降もその流儀は継続されていくことだろう。
竹島 ルイ