『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子が吉本創業者の息子と一つ屋根の下で暮らした期間はあまりに短く…不治の病と空襲の恐怖になぜ二人は打ち勝てたのか
NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく、笠置シヅ子と吉本穎右が一つ屋根の下で暮らせたのは、とても短い期間だったそうで――。 【写真】「音楽の力ってすごい、と感じるようになった」と話す趣里さん * * * * * * * ◆戦時下のロマンス 1943(昭和18)年、服部良一が映画『音楽大進軍』(3月18日・東宝)で「荒城の月」ブギを試していた頃、「笠置シヅ子とその楽団」は、日本各地で音楽ショウの巡業をしていた。 すでにジャズという言葉は軽音楽に置き換えられ、そのレパートリーも服部の編曲したインドネシア民謡や「アイレ可愛や」などのわずかの持ち歌だった。 この年の6月21日から10日間、シヅ子は名古屋・大須の太陽館に出演していた。 ちょうど御園座では新国劇「宮本武蔵」を上演しており、28日の昼、シヅ子は舞台の合間を見て辰巳柳太郎の楽屋に挨拶に行った。 そこで一人の青年と出会う。 「グレイの背広をシックに着こなした長身の青年で、ジェームズ・スチュアートのような端麗な近代感にあふれていました」(歌う自画像 私のブギウギ傳記・48年・北斗出版社)。 その青年は、吉本興業の創業者・吉本せいの息子・吉本穎右(えいすけ)、笠置よりも9歳下の19歳、早稲田大学の学生だった。シヅ子も穎右も大阪出身で東京暮らし。何かと心細いこともあり、仲の良い友達としてお互いの自宅を行き来するだけの交際がスタートした。
◆「笠置シヅ子とその楽団」の解散 1944(昭和19)年、「笠置シヅ子とその楽団」が不本意なかたちで解散し、シヅ子は服部良一はじめ、多くの人のサポートを受けてフリーの歌手となった。 この頃になると各地の劇場は次々と閉鎖され、勤労動員の工場への慰問や、地方の小さな芝居小屋などにも出演していた。 この年1月11日の東京新聞にこんな広告が出ている。銀座全線座で11日から「天下無双 春の実演 川田義雄二年ぶりの中央出演 川田義雄と笠置シヅ子の初顔合わせ」公演である。 川田義雄は、1937年から1939年にかけて「吉本ショウ」で大人気だった「あきれたぼういず」のリーダー。1939年、メンバーが新興キネマ演芸部に引き抜かれ、一人だけ吉本に残って、川田義雄とミルクブラザースを結成。 映画に舞台に、戦前を代表するコメディアンの一人だったが、脊椎カリエスの療養でしばらく休業していた。 その復帰を、笠置シヅ子との共演で華々しく行うというものだった。 銀座全線座は1938年開館の映画館だが、この頃は洋画の上映もできなくなり、実演にも力を入れていた。
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