「日本は遅れてしまった」「もっと細かい技も研究を」…フランス柔道の育ての親「粟津正蔵」が2015年に残していた苦言
異国での努力が報われました
フランス柔道連盟本部の横にある立派な道場は「DOJO SHOZO AWAZU」と名付けられ、粟津の写真が飾られている。1993年、粟津は日本の勲五等双光旭日章を受けた。 「陛下から受けた感動は忘れられません。異国での努力が報われました」 1999年にはレジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)を受ける。ナポレオンが制定した栄えある勲章を受けた際は、シラク大統領(当時)の側近から民枝さんに連絡が入ったという。見せてもらうと意外に小さな勲章だった。 フランス柔道界の粟津評を知りたく、柔道専門雑誌「L’ESPRIT DU JUDO」誌の知己、オリヴィエ・ルミー記者を訪ねた。猫が寝ていたおしゃれなオフィスで働くスタッフたちは若く、柔道がJUDOになったことを実感した。 「粟津先生は最も連盟に近い位置にいました。フランスの寝技、立ち技をともに強くしました。当初、その指導はラテン系のフランス人には厳しく感じましたが、誠実で常に真剣でした。フランスで柔道をする人は誰も『無口で静かな男』を尊敬します」(ルミー記者) 後に「誤審」とされたシドニー五輪(2000年)の無差別級決勝についてルミー記者は、「あの場面には優劣はなかった。ただ、その後の戦い方が篠原真一選手よりもダビッド・ドイエ選手が賢かった」と、ちょっと申し訳なさそうに話した。この試合では、篠原がフランスのドイエとほぼ同体で落ちたが、ドイエにポイントが付き、篠原が敗れた。
フランス人は私を尊敬してくれた
粟津は他界した父の死に目に会えなかったが、パリではひ孫を含めた一族に囲まれて幸せに暮らしていた。ひとり息子の浩三さんは建築家、孫娘たちは産婦人科医や弁護士。民枝さんはその昔、毎晩氷点下の中で乳飲み子を抱え、夫に食事を届ける毎日だったそうだ。 「息子は建築関係の学校で成績が一番でした。友達の親が親切にアドバイスしてくれました。主人が尊敬されているから辛いことはひとつもなかった」(民枝さん) 粟津も「フランス人に人種差別のようなのはなく、私を尊敬してくれた」と感謝も口にしていた。子供の頃に出会った医師、職場にいた川石酒造之助の妹、パリ赴任後の交代要員の思わぬ帰国……多くの偶然が重なり、粟津は生涯、柔道指導者としてパリで生き抜いた。 「人間の運命とは不思議なものですよ。フランス語も下手ですから不安を考えたらきりがない。でも海外で生活するのは朗らかに生きることが大事なんですよ」(粟津)