<米軍普天間基地の移設問題で注目>翁長雄志・沖縄県知事ってどんな人?
沖縄の米軍普天間基地の移設計画を巡り、移設反対をかかげる翁長雄志・沖縄県知事と政府との対立は膠着状態が続いている。移設反対の「民意」を背負う翁長知事とは、いったいどのような人物なのか。沖縄県を中心に発行される日刊新聞、琉球新報の古堅一樹(ふるげん・かずき)記者に寄稿してもらった。 --------------------- 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を進める政府に対し、辺野古移設の阻止を公約に掲げる沖縄県知事の翁長雄志氏は「あらゆる手段を駆使」して移設を阻止する方針を示している。自民党沖縄県連の幹事長など要職も歴任し、保守政治家として歩んできた翁長氏だが、2014年11月の県知事選で県議会の革新系会派に加えて那覇市議会の保守系会派など幅広い勢力から擁立された。選挙戦を通して「イデオロギーよりアイデンティティー」と繰り返し、沖縄県民が保革を超えて民意を政府へ訴える必要性を強調した。翁長氏の政治家としての立ち位置にはどのような背景があるのだろうか。生い立ちや政治家としての経歴を振り返り、翁長氏の人物像を探った。
政治家一家の系譜
翁長氏は政治家一家に生まれ育った。父・助静氏は真和志村長(現在の那覇市内)など、兄・助裕氏は西銘順治知事の下での副知事や県議などを歴任した保守政治家だった。父と兄は計15回の選挙戦に臨み、8勝7敗。父や兄の背中を見て、幼少時から父が出馬した選挙のポスター張りも手伝い、選挙の喜びも悲哀も両方を間近で見て実感してきた。 政治家の演説は身近にあり、あこがれた。「テレビも普及していない時代に、裸電球一つで瀬長亀次郎氏(那覇市長として米軍の圧政と戦った政治家)やうちの親父が演説し、どこの集会も人がいっぱい。うちなーぐち(沖縄の言葉)を交え、(指笛を)ピーピーやっていた」(翁長氏)ことが印象に残り、いつしか那覇市長になることが大きな目標となった。 翁長氏が小学生の頃、保守系の父が出馬した選挙戦の中で、労働組合に所属する教員のおばが、革新系の相手候補を応援するシュプレヒコールを上げているのを目撃した。おばは、後で父に泣いて謝ってきたという。また、父が落選した選挙では、相手候補を応援していた翁長氏の担任教員が職員室で万歳三唱をする場面も目にした。こうした光景は少年翁長雄志のその後へ大きな影響を与えたようだ。保守、革新の対立が激しい時代に政治家の息子ゆえの複雑な思いを何度も味わった。 翁長氏は、2000年から4期14年務めた那覇市長時代に、基地問題や沖縄戦をめぐる歴史教科書検定問題の県民大会で共同代表を務めて保革を超えて沖縄の民意を訴える象徴的な存在になっていったことで知られる。しかし、妻の樹子(みきこ)さんは「共同代表となった県民大会からではなく、小学校の時の悲しい思いが保守も革新も関係なく、みんなで頑張れることができないかとの考えにつながったのではないか」と少年時代の経験が源流にあることを明かす。