【千利休の末裔が語る“いつも感じのいい人”の習慣・第4回】神前や仏前で手を合わせるとき私たちは何を考えるべきか
人との距離感がわからなくなった時、立ち返るべき思考習慣がある。それは「思いやる」「敬う」「感謝する」「ご縁を大事する」「心の内よりきれい好き」「わが身に置きかえる」という習慣。千利休を祖とする茶の湯の家に生まれ育った茶人の千 宗屋(せんそうおく)氏は、最近の「我よし」という自分ファーストの風潮にいささか困惑しているという。今秋、人づきあいとふるまい方を説いた『いつも感じのいい人のたった6つの習慣』を上梓した千氏が語る短期連載。今回は、古来日本人が大切にしてきた「敬う」という習慣について伺ってみた。【全6回の第4回。第1回から読む】 【写真】著者で茶人の千 宗屋氏。千利休を先祖にもつ。
神仏や自然、他者を「尊ぶ」「敬う」
御朱印ブームや海外からの旅行客ラッシュもあり、神社やお寺にお参りする人は今も途切れることがない。お参りして神前や仏前で手を合わせた時、何を思うだろうか。 「健康で暮らせますように」「受験が成功しますように」「仕事がうまく運びますように」といったお願いごとをしている人がほとんどではないでだろうか。実はこれ、本来のお参りとは違うものと千氏は語る。 「お参りとは、まず神仏や自然など人間の営みを超えた存在に対して日々無事に過ごせていることへの感謝を伝え、ご挨拶をしに伺うことです。願いごとをするものではありません。 特定の宗教を指すわけではありませんが、たとえば日本の昔ながらの習慣を例にしますと、朔日(ついたち※月の第1日のこと)など毎月きりのいい日に寺社にお参りをしてご挨拶をし、前の月にあったことを報告し、1ケ月無事に暮らせたことを感謝します。そして、日常から少し離れた静かで清浄な場所に自分を置き、手を合わせることによって、自分の気持ちをリセットし、乱れていた感情を落ち着かせるのです。 これは、先祖の墓に参る時も同じで、家族と接するように先祖を身近に感じることを大切にする意味があります」(千氏、以下同)
「お天道様が見ている」が、日本人の行動の本質
神仏に手を合わせるという行為は、誰かに見せるために行うものではなく、神や仏と自分が向き合うこと。そしてそこには、いつも神仏の目があるという。 「神仏のもとでは、他人の目がないからといってゴミを捨てるなどの無作法なふるまいは慎み、たとえ誰も見ていなくても、ちゃんと背筋を伸ばして神仏にご挨拶をし、感謝をしたいものです。 昔からよく言われる『お天道様が見ている』という言葉も、神仏だけでなく自然そのものに対して恥ずかしくない行動をせよという意味です。そこには、自然や神仏に対する絶対的な敬意があります。この敬意があれば、公共の場であっても、誰もいなくても自然や神仏など超越した存在がある…という思いから、無礼な行いをしないよう心がけるはずです。それこそが本来の日本人の行動規範、すなわちふるまいやマナーの本質ではないかと、私は思うのです。 この『敬う』という気持ちは、神仏だけでなく、人にも当てはまります。相手を敬い、尊重する気持ちです。他者の行動を認め、他者の言葉に耳を傾けることで、自らの成長も促されるはずです。 作法やマナーを語る時、『恥をかかないために』という前置きをよく耳にします。もちろん、恥ずかしい思いをしたくないというのは、自分を守る行動であり、持っていて当然の感情です。 しかし、少し考え方を変えてみて、神仏や自然、他人を敬い、尊ぶことを基本にしてみてはどうでしょう。そうすることで、自ずと不快な行動を取ることもなく、誰に対しても心地よいふるまい方ができるようになっていることでしょう。『敬う』という気持ちをこそ、自らの行動を律する根拠としたいのです」