朝ドラ「虎に翼」が光を当てた戦災孤児…75年前の新聞はどう伝えたか、当時の記事から振り返る
四月八日 親友の悦ちゃんは朝から見えないと思ったらヒルすぎひょっこりあらわれたが、かねてににず元気がない。わけをきくと“三年前のきょう鴨池でヤケたんだ”といいのこしてどこかへ行ってしまった。 四月十五日 復興市場のオデンヤに世話になっているので下宿代として八百円やった。今月は少しもうけが多かったのでシャツを買ったら三百五十円とられた。 四月二十日 きょうは朝から雨が降って仕事はオジャン。バラックの中でねていたら悦ちゃんが遊びにきた。悦ちゃんは叔父さんの家にやっかいになっているが家にいるのは少しも面白くないという。ボクも雨の日はきらいで、二人で午前中はマンガの本を見たり、となりの姉さんからトランプを借りてきて遊んだ。 みんなとなりの姉さんのことをパンパンと冷やかしているが、やっぱりボクたちとおなじくヤケたんだから可哀相だ。悦ちゃんは姉さんからタバコをもらってスパスパやりはじめた。ボクにもすわんかといったので、すってみたら頭がフラフラしはじめた。顔が青くなったので悦ちゃんが生ミソを食べたらよいといって食べさせた。姉さんは何がおかしいのかゲラゲラ笑って“いまにすえるようになるから心配しないでよい”といっている。悦ちゃんはいつのまにおぼえたのかスウスウとふかしている。ボクはなんだか負けたようでくやしい。
四月二十三日 昨年八月までには駅前には十五名戦災孤児がクツミガキをしていたが、年末にはほとんどいまの連中におっぱらわれて、大阪に行って吉ちゃんと悦ちゃんとボクだけになっていたが、二人とも北九州にきのう行ってしまったのでボクも二、三日したら宮崎の姉さんのところに行きたい。アチラでは何をするかわからない。鹿児島は暮らしやすく離れたくないが、友だちがいないと仕事も面白くない。 日記形式だが、記者が話を聞いて再現したものかもしれない。“脚色”を感じられないこともないが、実態は反映しているだろう。戦争から3年が経過しても、孤児たちは街から消えていなかったことが分かる。
南日本新聞 | 鹿児島