「作家本人に面と向かってけなしていた」 “相手と刺し違えるぐらいの気持ち”で批評に向き合った「文芸評論家・福田和也さん」【追悼】
文芸評論家の福田和也さんは、文芸にとどまらず、幅広いテーマについて現実的、本質的に論じることができる“知の巨人”だった。 【貴重な一枚】福田和也氏と石原慎太郎氏の対談ショット
硬質な評論を発表したかと思えば、音楽、映画、落語、酒などを軽妙に語る。対象は硬軟バラバラなようで、現在の日本を形成してきたものや日本の有りように迫ろうとする姿勢が根底でつながっていた。
「天才で目のつけどころが違う」
1960年、東京・田端生まれ。父親は製麺機工場を経営、生活は豊かだった。 慶應義塾高校時代からの親友で映画史家の伊藤彰彦さんは振り返る。 「中島貞夫監督の任侠映画が好きで、日本近代史の暗部という視点からヤクザに関心を持っていました。早熟の天才で目のつけどころが違う。京都に一緒に行った時、寺の作庭の素晴らしさを延々とたたえていた。演劇に興味を持つと、後輩を援助して下さいと浅利慶太さんをいきなり訪ねたりして物おじしない。子供の頃から死への恐怖があると言って酒を飲んでいた。寂しがりやの面もありました」
江藤淳氏に見いだされて
慶應義塾大学で仏文学を専攻し大学院へ。ナチス・ドイツに協力したフランスの文学者を研究、7年をかけた成果を89年、『奇妙な廃墟』として出版した。この労作を尊敬する文芸評論家らに送本、ただ一人返事をくれたのが江藤淳さんだった。さらに江藤さんの紹介により翌90年、「諸君!」に執筆の機会を得る。 「遥かなる日本ルネサンス」と題されたこの連載は大きな反響を呼んだ。黒船の来襲により、日本は植民地にならないために西欧のシステムに適合する道を選択。しかし西欧化すればするほど日本でなくなり、この状況は現在も変わらないと考察。日本が主体性を得るために何が足りないのかの問題提起は冷戦終結など大転換期の日本を考える出発点になると評価された。 93年、文芸評論集『日本の家郷』で三島由紀夫賞を受賞。時評もさえていた。善意や思いやりを持っていればお互いに理解できると考える日本人は幼稚だと直言、2000年の『作家の値うち』では人気作家の作品を採点して物議を醸す。 「情緒や印象で語らず、本質は何かと突き詰める。言うべきことは誰にでも言い公平だった」(伊藤さん)