「小学校担任教諭への憧れが原点」 北野高・恩知忠司校長の生き方<上>
自然と芽生えていった将来の夢
また、クラス新聞の編集も「やってみろ」と任せられた。先生から行事予定やクラスの話題を載せることを指示され、それ以外のスペースには「あなたが好きなことを書けばいいから」と言われた。 最初は驚いたものの、ガリ版を切って新聞を作り上げた後、周りの反応を目の当たりにするうちに夢中になった感覚は今でも鮮明に覚えている。そして「先生になりたいな」という思いが知らず知らずのうちに芽生えていった。 この年に行われた三者懇談の時には、夜勤明けで家にいた父親が学校へ来てくれた。将来の話になった時、自分の口から「先生になりたい」と話すと、父親と教諭は大喜びしていた。そして「先生になりたいのなら、国立中学へ行きなさい」と勧められ、後に合格した。 今思えば、この担任教諭との出会いが、現在につながる原点となった。
就職活動「高校教諭の試験に合格したら辞退させてください」
中学、高校でも「先生になる」という目標に向かって勉強を続け、高校卒業後は京都大学文学部に進学した。大学で学んでいるうちに「今の自分といちばん年齢が近い、高校生たちを教えたい」と思うようになっていた。これは自分の周りに小学校教諭を目指す人がいなかった影響もあったのかもしれない。担当教科にこだわりはなかったが「いちばん勉強していた」という英語を選んだ。 やがて大学4年生になり就職活動の際は、旅行会社や百貨店、教育関係の出版事業を行う企業を受け、各社から内定をもらった。しかし、唯一、在阪テレビ局のアナウンサー試験は不合格だった。「原稿を読んだりしましたけど、カメラテストとかで『これは無理だな』と思いました」 しかし、内定をもらった企業には「高校教諭の採用試験を受けていて、それが合格だった場合は内定を辞退させてください」と事前に申し出ていた。 そして「本命」だった大阪府の教員採用試験に合格、教諭になるという夢を実現させた。
新しい高校に赴任、自分の時代と違う環境に戸惑い
初任地は大阪市平野区の大阪府立平野高校。夢を叶え期待を胸に社会人の第一歩を踏み出したが「リアリティ・ショック」を受けた。 当時の同校は、赴任と同時に4期生が入学するというまだ新しい高校で元気な生徒が多かった。しかし、学校の周囲を車が走ったり、時には校内へ侵入してくることも。そのたびに「若いから」という理由でベテラン教諭から指名され、同じく若い世代の教諭らとともに対応に向かうなど、自分の高校時代と全く違う環境に戸惑ったこともあった。 柔道担当の先輩教諭に「もしもの時に対処する方法も覚えておきなさい。柔道はやったことがあるか」と聞かれると「授業で習いましたが、戦いのために使ったことはありません」と答えるしかなかった。しかし、そんな若い自分たちに先輩はていねいに護身術などを教えてくれたのもひとつの思い出だ。