俺は絶対に「哲学」という言葉は使わない…東洋のルソーが「理学」にこだわり続けた「深すぎるの理由」
この時代をどう捉えるか
兆民が西洋の思想と東洋の思想を貫く普遍的なものに目を向けていたということは、西洋に学ぶべきものがないということではもちろんない。むしろ兆民ははっきりと東洋の思想の不十分性を認識していた。倫理や道徳においては決して劣らないが、「技術と理論」においてはとうてい及ばないというのが兆民の考えであった。兆民が残した有名なことばに、「我日本古より今に至る迄哲学無し」というものがある。経験の理論化という点での不十分性が哲学の不在という結果を引きおこしているという理解に基づいて語られたことばであると言ってよいであろう。」 まさに理論の不在を克服するという点で、ヨーロッパの哲学は兆民にとって範とすべきものであった。ヴェロン(Eugène Véron, 1825-1889)の『美学』やフイエの『哲学史』を訳したりしたのも、そのような認識に基づいてのことであったと言ってよいであろう。しかし兆民はヨーロッパの哲学を無条件に肯定したのではない。興味深いことに、西周が高く評価した実証主義の哲学に対しても兆民は『続一年有半』のなかで批判の目を向けている。具体的には次のように述べている。「此一派は極て確実拠る可きが如くに見えるが、其現実に拘泥するの余り、皎然明白なる道理も、苟も実験に徴し得ない者は、皆抹殺して、自ら狭隘にし、自ら固陋に陥いりて、其弊や大に吾人の精神の能を誣いて、之が声価を減ずるに至るので有る」。たとえ科学的な検証を経ないものであっても、動かしえないと考えられるもの、あるいは道義上認められるべきものは存在するのであり、実際に確かめられないという理由でそれをすべて排除すれば、人間の能力を不当に狭めなければならないというのが兆民の考えであった。 このように兆民が実証主義の哲学を批判しえたのは、「虚学/実学」という二分法的な枠組みで東洋・西洋の思想を整理し、一方を排除するということをしなかったからである。むしろ、そのような枠組みを取り払ったところに自らの視点を据え、評価すべきものを評価するという姿勢を兆民は持ちつづけた。そのような兆民にとって、「他ニ紛ルコト」を慮る必要はなく、あえて「哲学」という新しいことばを作る必要はなかったのである。 西や福沢の西洋の学問の受容の仕方とは異なった兆民のそれは、いままでにない新しい知に触れたとき、それをどのように受容すべきかという根本的な問題に関して、きわめて重要な問題提起を行っている。それはテクノロジーの著しい発展に伴って新しい知見や技術に日々接するようになっている私たちにとっても大きな意味をもっている。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝