俺は絶対に「哲学」という言葉は使わない…東洋のルソーが「理学」にこだわり続けた「深すぎるの理由」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
中江兆民の「理学」
philosophy の訳語として最初有力であったのは「理学」であったが、西周が「哲学」という訳語を使いはじめ、やがてそれが定着していった。しかし、ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)の『社会契約論』を日本に紹介し、また自由民権運動に大きな影響を与えた中江兆民はあくまで「理学」という訳語を使いつづけた。 フイエ(Alfred Fouillée, 1838-1912)の『哲学史』を訳した『理学沿革史』(一八八六年)や日本で最初の哲学概論とも言うべき『理学鉤玄』(一八八六年、「鉤玄」とは「奥深い道理を引きだす」という意)においても、哲学を「理学」と表現しているし、また死の直前に出版した『一年有半』や『続一年有半』(ともに一九〇一年)においても、「理学」という訳語を使いつづけている。なぜそうしたのであろうか。 まず注目しなければならないのは、兆民が西周や津田真道、福沢諭吉ら「明六社」に集った明治初期の啓蒙家たちとはっきりと異なった学問観をもっていた点である。 すでに見たように、西周は空理と実理という表現で東洋と西洋の学問の特徴を言い表している。それに対して兆民は、一方だけを評価する、あるいは絶対視するということはしなかった。兆民にとって学問は「虚学/実学」という二分法で整理できるものではなかったからである。西洋と東洋の学問は、そのあいだに一線を引いて截然と区別されるべきものではなく、それぞれの立場から学問の発展に寄与すべきものと考えていたと言ってもよい。 兆民はフランス留学中に接した政治思想を日本に紹介することによって、それまでミルやスペンサーの自由論、代議政治論を理論的な拠りどころとしていた民権運動家に新たな理論的基盤を提供した。とくに兆民によって紹介されたルソーの社会契約の思想、人民主権論は、高まりつつあった民権運動に大きなはずみを与えた。『社会契約論』第一編第一章冒頭の「人間は自由なものとして生まれた、しかしいたるところで鉄鎖につながれている」ということばに典型的に見られるように、ルソーの人民主権論の根底には、人間がその本質において自由な存在であるという理解があった。この「自由」の観念を核に兆民は自分の思想を形成していった。 しかし兆民の理解では、それは西洋の思想のなかにだけ見られるものではなかった。孟子の言う「義と道とに配する浩然の一気」(「公孫丑篇」)、つまり道義に自ずからつれそう「ひろびろとした気」は、ルソーの言う自由、つまり、欲望のままに行為するのではなく、自ら法をつくり、それに自ら従う自由にも通じるものであった。 西洋と東洋の思想をただそれぞれの文脈のなかで理解するだけでなく、むしろ両者を貫く普遍的なものに目を向けたところに兆民思想の特徴が存在する。兆民にとって西洋思想に目を向けることは、一方的に西洋思想を受容することではなく、東洋思想と、そしてやはり特殊なものの一つである西洋の思想とを貫く普遍的なものに目を向けることを意味したと言ってよい。