徳川家康はなぜ泰平の世を築けたのか? 家康を支えたブレーンたちを一挙に振り返り!
2023年大河ドラマ『どうする家康』では、新たな家康像が描かれた。注目すべきは、やはり家臣との強い絆であろう。そして、家康が天下人となって泰平の世を実現するまでの長い道のりを共に歩み、その政治を支えたのが多彩なブレーンたちであった。今回は、そんな「徳川の頭脳」として活躍した人物たちを一挙に振り返る。 ■家康のサクセスストーリーの裏には有能なブレーンたちの活躍があった 家康は、その生涯で必要に応じて様々なブレーン(軍師的存在)を重用した。弱小の戦国大名だった時代には、三河家臣団に支えられたが、三河統一後には東西(浜松城・岡崎城)に酒井忠次・石川数正(当初は叔父・石川家成)を置いて家臣団をまとめさせた。 だが家康自身の存在が大きくなり天下を視野に入れる頃には、それまでの「鑓一筋」の武功派に加えて、政治・行政・外交などに精通した頭脳派ブレーンが台頭する。そこには豪商・僧侶・儒者・技術者(経済官僚)・外国人まで幅広い層が加わってくる。 政治ブレーンの筆頭は、本多正信(まさのぶ)・正純(まさずみ)父子である。正信は下級の三河武士出身で一向一揆では一揆側に立ち、鎮定後は国を捨てて諸国を遍歴し元亀元年・姉川合戦の折に帰参した。以後は家康の懐刀として、謀略などを含む政治的な諸問題を解決した。譜代の三河武士団からは嫌われたが、嫡男・正純ともども徳川将軍家の絶対的権威を確立するために尽くした。大御所・家康、将軍・秀忠という二元政治も正信・正純が軌道に乗せたのだった。 異色ブレーンとしては、僧侶の南光坊天海(なんこぼうてんかい/天台宗)・金地院祟伝(こんちいんすうでん/臨済宗)がいる。『徳川実記』によれば天海は「常に(家康の)左右に侍して顧問に与り」とあるように家康の信頼第1の僧侶であった。祟伝は、外交文書・法律作り(武家諸法度・禁中並公家諸法度・寺院諸法度)や政策決定にも参画して「黒衣の宰相」と呼ばれる存在であった。 また財政面では、金座で小判鋳造に貢献した後藤庄三郎、豪商は浜松城時代からの京・大坂の商業と情報協力者であった茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)、富士川開削やベトナムなど海外貿易も行った角倉了以(すみのくらりょうい)がいた儒学者・林羅山(はやしらざん)は、朱子学を徳川幕府の政治思想として導入して、その子孫まで「林家」と呼ばれて徳川幕府を思想面で支えた。 家康が貿易経済面で外交顧問としたのは、イギリス人のウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンの2人であり、ヨーステンの名前は東京・八重洲として残る。 何よりも行政官・技術者は、家康の徳川幕府にとって「民政ブレーン」として大きな存在であった。家康が関東移封の後、難しい領国経営に成功したのは民政・経済を支えた経済官僚(テクノクラート)の能力を発揮させたからであった。 領国を経営するのに大事なことは、領国の収穫高の正確な数字である。これを測るのが検地であり、家康はこの検地の実務に通じた彦坂元正(ひこさかもとまさ)を起用した。彦坂は今川氏没落後に家康に仕えた実務者であり、一里塚や伝馬(てんま)制度を整備した。また、治水・灌漑事業に精通した伊那忠次、鉱山(金山)開発に長けた武田旧臣の大久保長安(旧姓は大蔵・土屋)も重用した。 忠次は、三河以来の家臣であったが、関東入府に当たり利根川・荒川など暴れ川の異名を取る河川改修を行い、その水利事業によって収穫の安定と土地の有効利用をもたらした。長安は、武田家に猿楽師として仕えた大蔵太夫の次男であったが、能楽ではなく蔵前衆(金山衆・勘定方・山林方など)として信玄を支えた1人であった。武田家滅亡後に、家康の重臣・大久保忠隣に仕え、大久保姓を得た。 長安は、忠次の下で関東代官として一里塚整備・八王子千人同心の前身整備などを行ったが、特筆されるのは鉱山(金・銀山)経営であった。甲州金山の採掘経験を生かして佐渡・伊豆の金山や石見(いわみ)銀山などの経営に従事して、圧倒的な産出量を捻り出した。後には、その幅広い人脈と才能を武器に幕閣の有力者に成り上がり「天下の総代官」とまで呼ばれる存在になる。だが、死亡した直後、不正蓄財が咎められ一族断絶の憂き目に遭う。 家康が三河の一戦国大名から天下人になるまで、あらゆる面で常に知恵袋を置いたことの表れが、軍事から始まり政治・民政・外交・思想・文化という最終段階でのブレーンシフトに繋がったのである。 監修・文/江宮隆之 (『歴史人』2022年8月号「徳川家康天下人への決断」より)
歴史人編集部