戦争が終わって最愛の人と一つ屋根の下。服部良一も戻り「喜劇王」と共演…『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子にやってきた<人生最良の日々>とは
NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「シヅ子は長くつらい戦争が終わり、ステージも再開したことで、シヅ子の仕事も私生活も充実し始めた」そうで――。 【写真】「音楽の力ってすごい、と感じるようになった」と話す趣里さん * * * * * * * ◆笠置シヅ子の戦後 1945(昭和20)年11月22日、日劇「ハイライト」公演から、歌手・笠置シヅ子の戦後が始まった。 この頃は、最愛の人・吉本穎右と荻窪で一つ屋根の下で間借りをしていた。長くつらい戦争が終わり、ステージも再開して、仕事も私生活も充実し始めていた。シヅ子にとってはこの年の年末まで二人で暮らしたことが「人生最良の日々」だった。 翌46(昭和21)年、穎右は早稲田大学を中退。吉本興業東京支社で社員として働くことになった。 服部良一は、引き揚げてきた翌日の午後、早速、日劇の楽屋を訪ねて、シヅ子や灰田勝彦、岸井明たちと再会、旧交をあたため、すぐに仕事に復帰することに。 明けて1946年の正月公演は、日劇ではエノケン一座「エノケンのサーカス・キッド」(作・菊田一夫、音楽・栗原重一)、有楽座では古川ロッパ一座「平和島・ロッパの福の神」(作・サトウハチロー、音楽・鈴木静一ほか)だった。 エノケンもロッパも、丸の内の舞台に戻ってきたのだ。 東宝系の映画館では、戦後初の正月映画『東京五人男』(45年12月27日・齋藤寅次郎)が公開され、古川ロッパ、エンタツ・アチャコ、石田一松、柳家権太楼の五人男が、焼け跡を舞台に復興に奮闘する喜劇に、観客たちは爆笑。 こうしてエンタテインメントが戻ってきた。
◆山内義富 正月、シヅ子は京都花月劇場、続いて大阪千日前の常盤座に出演、1月21日から吉祥寺の服部良一宅の2階に世話になった。 荻窪のフランス人宅には、東宝映画のプロデューサーの杉原貞雄一家、エノケン劇団文芸部の藤田潤一一家も、焼け出されて同居しており、穎右との関係も公にしていなかったので、何かと気兼ねをしていた。 そこで、思い切ってシヅ子だけ服部宅に間借りしたのである。 その後、美容院で知り合ったシヅ子のファンである荘村正栄の目黒の自宅にこの年の暮れまで世話になる。 東京はまだ焼け跡で、人々は住宅難で困っていた。家を建てることも借家もままならず、誰もがこうして知り合いの伝で家を探していた。 この頃、吉本穎右は、ステージの仕事が多忙になってきたシヅ子のためにマネージャーを付けた。戦前はコロムビア制作部にいて、敗戦後は吉本興業で働いていた山内義富である。 服部とも旧知の山内は、良い意味で「番頭」タイプで、シヅ子も全幅の信頼を置いていた。
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