「豪州には住まわせない」難民受け入れの“アウトソーシング化”に疑問の声
「白豪主義」から「多文化主義」へ転換したが
オーストラリアでは1970年代初頭まで、白人以外の移民流入を認めない、いわゆる「白豪主義」で知られていたが、1972年に発足したホイットラム政権によって白豪主義は廃止され、オーストラリアは多文化主義を国策として掲げ、アジアからの移民にも門戸を開いた。70年代中旬には戦火を逃れてやってきた多くのベトナム人難民の受け入れも行い、ベトナム以外の国からも多くの難民がオーストラリアを目指すようになった。オーストラリアの多文化主義は現在も続いており、オーストラリアが多民族国家であることは疑う余地もないが、難民の受け入れに関してはこの20年で大きな変化が生じている。 1990年代前半、ボートでオーストラリアに入国した難民認定申請者は年間数百人レベルだったが、密航業者によってインドネシアといった地域からのルートが開拓されたことで、90年代後半からボートを使った入国が急増。2001年には5500人超がオーストラリアに入国した。難民認定を求める申請者の急増にオーストラリア政府が対応しきれなくなり始めたことや、海上ルートでオーストラリアにやってくる難民認定申請者が事故などで命を落とす危険性、密航業者の台頭を抑える必要性など、「ボートピープル」への早急な対応を迫られた中道右派のハワード政権は2001年秋に「パシフィック・ソリューション」という対ボートピープル政策を開始する。 この政策は難民認定申請者を乗せた船を海上で拿捕し、彼らをオーストラリア本土に立ち寄らせないまま、他国に作られた施設に収容し、そこで難民として生活させる仕組みだ。前述のナウルや、パプアニューギニアのマヌス島、オーストラリア本土から2000キロ以上離れたクリスマス島(オーストラリア領)に収容施設が作られ、難民認定申請者はオーストラリアから遠く離れたこれらの場所で新たな生活を始めることになった。 誤解が生じないように、少し説明すると、オーストラリア政府は毎年一定数の難民受け入れを行っており、毎年1万人を超える難民にオーストラリアでの定住許可が与えられている。2015年から2016年にかけて、オーストラリア政府は当初約1万3000人の難民受け入れを予定していたが、シリア内戦の激化とそれが原因となった難民の増加に対応するため、難民受け入れ数を2万5000人にまで増やしている。オーストラリア政府がパシフィック・ソリューションの対象としているのは、船を使ってオーストラリア入国を試みる難民認定申請者で、空路でオーストラリアに入国した者は対象外となる。 ヨーロッパのケースとは異なり、オーストラリアに陸路で入国することは物理的に不可能で、空路か海路のどちらかになる。オーストラリア政府はヨーロッパ諸国よりも入国を試みる難民認定申請者の数をより把握できており、空路でやってきた多くが審査を経て在住資格を得ていると主張する。しかし、難民認定を受けているか否かに関係なく、船で入国を試みた者は基本的にオーストラリア本土に住むことはできない。