岸田首相がアメリカ議会での演説で強調した言葉「法の支配」の矛盾を、途上国の人々は見抜いている
②未開国(barbarous):ペルシア、中国、タイ、日本など ③野蛮国(savage):アフリカ諸国など 上記分類のうち、①の文明国には国際法はフルスペックで適用されたが、②の未開国には部分的にしか適用されなかった。③野蛮国については、そもそも国際法が適用されず「無主の地」と判定され、文明国によって支配されるべき対象となった。 近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、西欧諸国にとって『国際法原理』は植民地獲得競争のルールにもなった。
かように近代国際法は、その適用を「文明国」と「それ以外」に分ける選民思想の産物だった。これを「近代国際法の二重原理」すなわちダブルスタンダードと呼ぶのである。 東アジアにおいて、この条約体制の最初の犠牲となったのが中国最後の王朝・清朝で、アヘン戦争後、イギリスとの間で締結された南京条約(1842)は不平等条約そのものであった。開国した日本がアメリカと締結した日米修好通商条約(1858)が「領事裁判権の承認」 と 「関税自主権の欠如」という不平等条約であった理由もここにある。
だが、日本には万国公法や欧米諸国の植民地主義、帝国主義に疑義を投げかける人物もいた。たとえば西郷隆盛(1828-1877)である。西郷は『南洲翁遺訓』(1890)の中で、次のように記している。 「文明というのは道義、道徳に基づいて事が広く行われることを称える言葉である。(中略)もし西洋が本当に文明であったら開発途上の国に対しては、いつくしみ愛する心を基として、よくよく説明説得して、文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、開発途上の国に対するほど、むごく残忍なことをして、自分達の利益のみをはかるのは明らかに野蛮である」
■「文明国」と認められることへの違和 日本を「野蛮国」だと見下してきた欧米諸国の日本をみる目が変わるきっかけになったのが日清・日露戦争の勝利だ。日本を「文明国」と認め、不平等条約の撤廃に応じた。西洋的な見方を国際基準として妄信することを拒否した思想家・岡倉天心(1863-1913)は、『茶の本』(1906)で、このように書いている。 「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮(さつりく)を行ない始めてから文明国と呼んでいる。(中略)もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう」