日本では有名人は「神様」なのか?...ミーハーな行動「一緒に写真を撮ってもいいですか」がジョージアでは通じなかった歴史的背景
<今や天皇陛下ご一家もインスタを利用されるなど有名人は身近な存在になったが、ジョージアでは「有名人」の概念がない?>【ティムラズ・レジャバ(駐日ジョージア大使)】
私にとっては、テレビに出るような有名人は自分とは異なる世界にいる、雲の上の存在であり、神格化すらされる存在であり続けてきた。茨城県に住んでいたこともあり、芸能人を街で見かけることもほとんどなかった。 【画像】天皇陛下ご一家(宮内庁)のインスタグラム そのため、バラエティー番組を見た翌日には、好きな芸能人やスポーツ選手について学校で友達と盛り上がることは普通だった。東京に遊びに行った友人が、たまたま芸能人を見かけて「すごいオーラだった」と話してくれるなど、盛り上がったものだ。 よく覚えているのは、中学時代の友人が高校卒業後にプロ野球の球団入りが決まり、街中がその話題で持ち切りだったことだ。自分のことのようにうれしく、彼を誇らしく思ったのと同時に、これからは私たちとは別世界の人間として遠い存在になってしまう悲しさを覚えたことを今でも思い出す。 この、自分の知る人が遠い存在になるという「哀愁」のような感覚は、実生活であれ、映画や小説であれ、誰もが共感できるのではないだろうか。 しかし、この感覚をつくり上げているのは、社会にあるのではないかとも思っている。というのも、ジョージアでは有名人に対する捉え方が全く違うからだ。 かつて、昔からよく見ていたジョージアのドラマの主人公と街中でバッタリと会ったことがある。一緒にいる友達にこっそりと「あの人って、テレビによく出る人だよね?」と尋ねると、「ああ、あいつはそうだよ。よくこの辺で散歩している。友達のいとこだよ」という至って普通の返答だった。 ミーハーな行動とは分かりつつも、その超有名俳優との出会いのチャンスを逃すまいと、「一緒に写真を撮ってもいいですか?」とお願いした。すると、その俳優は「外国人なのに、ジョージア語がうまいね」と言って、快く応じてくれた。 どうやらそんなことをお願いするのは外国人だけであり、写真を一緒に撮ってほしいとジョージア人に頼まれることは、まずないようだ。 なぜ、ジョージア人は有名人と遭遇しても騒がないのか? それは12世紀頃から「人間みな平等」の思想が根付いていたことにあると考えている。 それによると人は「みな神の子」であり平等である。すなわち精神、あるいは内面でこそ、その人の価値を測るべきだというキリスト教的な考え方に基づく。従って、人は有名かどうかでは判断されない。 たまたまその人が有名なのであって、それが優れた人間であるということとはイコールではない。そういった感覚がジョージアでは共有されているのだ。 「出る杭(くい)打たれる」ではないが、日本では自分だけがほかの人よりも目立つことはよしとされない。だからこそ、目立つ人間は「選ばれし者」として、脚光を浴びてきたという逆説もあるのではないだろうか。 私が、芸能人やスポーツ選手などの有名人を神のような存在と見なしていた時から20年余りたった今、情報環境をはじめとした社会の状況は大きく変化した。SNSが普及し、有名人は一般人と変わらないほど身近な存在になった。 今や天皇陛下ご一家(宮内庁)もインスタグラムを利用されているくらいだ。 そういう私もそのSNSの恩恵を受けて、知られるようになった。最初は「バズる大使」と言われることに多少の違和感があったが、今ではその愛称にも愛着を感じている。 そのおかげで日本の皆さんと対話し、交流し、日本社会の一員として受け入れていただいていることにも感謝している。ちなみに私はジョージア人だが、有名人に限らず誰にでも記念写真を撮ることをお願いするし、されることも大歓迎だ。
ティムラズ・レジャバ(駐日ジョージア大使)